検索ワード:戦争/54件ヒットしました

  • Thumbnail

    テーマ

    ウクライナ危機で読む複雑怪奇な国際情勢

    2014年のウクライナ危機は、東西冷戦の復活を予感させた。一見、ロシアの暴挙ばかりが指摘されがちだが、欧米を中心としたNATO陣営によるロシアの実態の誤認や無理解が招いた対立であったとの見方もある。そもそも、ロシアを突き動かしたものは何だったのか。「複雑怪奇」ともいえる国際情勢の深層を読み解く。

  • Thumbnail

    記事

    リベラルが招いた悲劇、ウクライナ危機が提起する安全保障のジレンマ

    42であった。さらに図2のようにNATO空軍の優位も当時拡大しており、NATO軍と通常兵力による全面戦争になれば、ロシアが敗北することに変わりはなかった。図2.ヨーロッパの空軍力指数の推移(筆者作成)※クリックで拡大 なお、14年のクリミア併合に始まるウクライナ危機は、基本的に短期的軍事問題であり 、国際的なパワーの分布や構造の観点で見ると、軍事力が国家のパワー要素の大きな部分を占めていたと考えられるので、そのような前提で議論する。 既述の通り、そもそもロシアは歴史的に西欧諸国との間に緩衝地帯を必要としており、ウクライナのNATOへの加盟には何度も警告を発している。このような警告の後、ジョージアの例に見られる通り、可能であれば軍事力による干渉も辞さないのがロシアである。 だが、ロシアと国境を接するウクライナは、そうした厳しい軍事的環境にあるにもかかわらず、NATO諸国同様にリーマンショック以降、軍事費削減の流れに沿って陸軍の装備を大幅に削減した。NATO軍が域外に兵力を派遣するには加盟国の全会一致が必要で、ウクライナへの軍事的支援を受けられる見込みがないにもかかわらず軍縮が行われた。 もし、ウクライナがポーランドやエストニアのように2010年と同レベルの軍事力を保有していれば、ロシアは軍事介入できなかったであろう。ロシアはバルト三国が04年にNATOに加盟したときのように、ポーランドなどの加盟プロセスを含め、NATO諸国との歴然たる軍事的格差により介入が実行不可能な場合は、軍事力を行使しなかったからである。 このような観点からすると、理解できないのは、ロシアと直接国境を接し、NATO非加盟国であるウクライナが、10~15年に大幅に陸軍力指数を削減した後の対応である。 ウクライナ経済はロシアからの天然ガス供給問題や経済改革の停滞などによって極度に低迷しており、軍事力削減は無理からぬところではあった。また、ヴィクトル・ヤヌコビッチ政権が親露的であったからこそ、陸軍削減が可能だった。 逆にそういう意味で、陸軍の削減はクリミア危機時点での政府の責任でもない。しかしそれゆえに、軍事力の視点に立てばロシアとの対立は避けるべきであった。現に同じくNATO非加盟国であるベラルーシは、ロシアとの集団安全保障条約に加盟しつつ、ロシアへの併合は拒否するという外交スタンスを保っている。ウクライナの政変で反政権デモ隊が拠点とした首都キエフの独立広場=2014年(遠藤良介撮影) それに対し、オレンジ革命をはじめとしてウクライナは、民主化とNATOへの加盟を切望する政治勢力がしばしば政権を握っていた。このように、14年のウクライナ危機は、親ロシア派のヤヌコビッチ大統領が逃亡し、民主化とNATOへの加盟を望むオレクサンドル・トゥルチノフ暫定政権が成立したのをきっかけに始まったと見ることができる。 新政権成立時の14年初頭には、ウクライナの陸軍力指数は2010年の2分の1である88まで低下していた。その一方で、ウクライナと国境を接するロシアの西部軍管区の数値は111、南部軍管区は107であり、ウクライナの領土奪取やウクライナの政情不安定化を可能とするだけの軍事力があり、ロシア財政も原油価格高騰により潤沢であった。意図に反した軍拡 したがって、東欧において軍事力を中心としたパワーの面でいわゆる力の真空が発生し、ロシアがジョージア侵攻を行ったこととあわせ考えれば、ロシアによるウクライナに対する武力行使の発生や国際システムの不安定化が起こるのは明らかであった。 トゥルチノフ暫定政権としては、当面ロシアと妥協しつつ、ウクライナ軍の支持を得て予備役を招集し、全土に非常事態を宣言してしばらく戦時体制を維持しながら選挙を行うのが現実的選択肢であった。しかし現実は、参謀総長すら欠いたままロシアのクリミア侵攻を迎えたのである。 このような結果を生んだ根本的原因は、主として米国の歴代政権が国際政治の現実を無視して、ウクライナの親西欧側勢力に何の軍事的裏付けもなく、民主化とNATO加盟の夢だけを与えたことにある。そして夢を与えられた側も国際政治の現実を見ないまま行動し、ロシアに付け入る隙を与えてしまった。 ロシアのウクライナ侵攻後、米陸軍は自ら企画し実施した図上演習を元にランド研究所に論文を作成させ、ロシアの能力を評価し、「ロシア軍は60時間でラトビア、エストニアの首都に到達しうる」とした結論を下した。 この論文は有力メディアや米欧州陸軍司令官などあちこちで引用され、ロシアの脅威が過大評価された。図上演習は、シナリオの設定次第で結論をいかようにも操作できる。つまり、将棋でわざと負けたのと同じである。 しかし、現実のロシアの軍事力はNATO軍を相手にするには小さすぎるのである。ロシアの西部軍管区は、ラトビアから大体1500キロの範囲に収まるが、その圏内にあるNATO軍の陸軍力指数合計は15年当時、西部軍管区の3倍であり、ポーランド一国で西部軍管区全体と同じぐらいの軍事力を有していた。 ラトビアから2千キロ圏内にはトルコが入るが、15年にはトルコ一国だけでロシア陸軍全体の約2倍近く強力な陸軍を保有していた。このようにランド研究所による研究ではヨーロッパの軍事バランスを全体として見る視点が全く欠落している。 米議会予算局(CBO)によれば、冷戦末期の中央ヨーロッパのADEを算出すると、ワルシャワ条約機構の諸国軍がNATO諸国軍を1・5倍前後勝っていた。また、筆者の陸軍力指数で再計算するとパリティであった。それゆえに、ソ連崩壊によって衰退した現在のロシア軍に大騒ぎするのは妙な話である。 したがって、冒頭で述べたワルシャワサミットによるNATOが行った部隊配備はそもそも不要であった。この部隊配備は「前方プレゼンス配備」(EFP)と呼ばれ、ポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニアにそれぞれ千人のNATO軍がロシア国境に常駐し、有事の際には即応するというものだ。 だが、結果としてこのEFP配備がロシアによる軍備増強をもたらし、バルト三国およびポーランドへの軍事的緊張を高めることになってしまった。 そもそもバルト三国のEFP配備の希望を無視したところで、NATO軍は第5条事態(集団的自衛権の発動)になれば同盟として必ず介入するし、そうでなければNATOという同盟は崩壊してしまう。ロシアを刺激してまで、EFP配備を進める必要はなかったのだ。演習のためエストニアのアマリ空軍基地で待機する米軍のF16戦闘機=2015年、エストニアのアマリ空軍基地(内藤泰朗撮影) ロシアは、EFP配備を97年のNATO・ロシア基本文書における新加盟国の領土において、「実質的な戦闘部隊の付加的で永続的な配置」を行わないことに違反していると主張した。 当事国のロシアがそう言うのであるから、NATOが「基本合意違反ではない」といっても詮無きことである。ロシアは合意違反という認識に基づき、西部軍管区に2個師団、南部軍管区に1個師団増強すると宣言し、実際に増強している。ウクライナ危機の教訓 その結果、バルト三国正面の兵力比率は大幅に悪化した。ロシアの防衛力整備計画は、財政難を理由に実行されないことが多い中、対NATO正面の陸軍兵力をいかに重視しているかが分かる。 具体的には、16年5月、NATOによるバルト三国などへのEFP配備がメディアにより明らかにされ、NATO事務総長などによって確認されると、ロシアのセルゲイ・ショイグ国防相はNATOに対抗するために、西部軍管区に2個師団、南部軍管区に1個師団を新設すると発表した。その後、7月にワルシャワで行われたNATOサミットにおいて、バルト三国へのEFPの部隊配備が正式決定されてしまった。 そしてミリタリーバランス2020年版によると、西部軍管区のロシア軍は約2個師団、南部軍管区のロシア軍は約1個師団実際に増強されていることが、軍管区の編成上もロシア全体の陸軍力指数の評価からも明らかになった。 この結果、20年のバルト三国正面の西部軍管区は、15年の1・5倍前後の戦闘能力を有することになり、NATOの思惑とは逆に軍事バランスは大幅に悪化したのである。 民主主義の価値を重視するオバマ 政権が、政府の一部にすぎない陸軍によって振り回された結果、安全保障環境を悪化させしまったわけであるから、これはオバマ元大統領が重視するリベラルデモクラシーの根幹を揺るがすものであった。 また、現実主義の立場からは、NATO軍が防衛的反応だと考えているものに、ロシア軍のさらなる強硬な対応を招きかえって軍事バランスが悪化する、セキュリティージレンマを生じさせる可能性があるという観点を持つべきであったとの批判が可能であろう。 こうして米陸軍に対する兵力削減圧力の緩和といった組織防衛の目論見に乗せられて、ロシアに3個師団の増強を決定させ、バルト三国正面の軍事バランスをかえって悪化させたと見ることもできる。 では、ウクライナ侵攻をもたらした根本的原因は何であろうか。それは、軍事バランスの構造やロシアの考え方を理解することなくウクライナをNATOに引き入れようとしたNATO諸国の政策であり、とりわけ、ロシアを刺激するのに消極的な独仏を押し切ってウクライナを含むNATOの東方拡大を進めようとした米国の歴代政権の政策である。 ブッシュ政権に続くオバマ政権が、ロシアの勢力圏的発想を19世紀的であるとして認めないのは自由である。しかし、オバマ政権が国際法にのっとってそう主張するだけでロシアを抑止できると考えているのであれば、それはオバマ元大統領のような法律家が陥りがちな考えであろう。 米露中などの大国は、国益の観点からしばしば国際法を無視したリアリズム的な行動をとるにもかかわらず、オバマ元大統領らリベラルな政治家は、「NATOが団結し、民主主義の価値に忠実であれば勝利する」などと主張する。 それは民主党政権、共和党政権を問わず米歴代政権が行ってきたゆえ、再度主張するのは何の問題もない。しかし、実際に現実がそうである思い込んでいるように見える点で「現実の国際政治に立脚していないのではないか」という疑念が消えない。北大西洋条約機構(NATO)首脳会議閉幕 ラトビアの首都リガで開かれたNATO首脳会議で公式写真の撮影を前にくつろいだ表情の(右から)ブッシュ米大統領、メルケル独首相、ヤープ・デホープスヘッフェルNATO事務総長=2010年、ラトビア・リガ(AP=共同) このようにウクライナ危機は、米国およびNATO諸国のネオリアリズム的観点の欠如がもたらした危機であると見ることもできる。これは先日より話題となっているベラルーシ問題を抱える現在に通じる問題であり、ウクライナと同様の轍(てつ)を踏まないよう、注意が必要である。 とはいえ筆者は、国際ルールを誠実に守る明治期の日本や現代の日本のような国があることを否定するものではない。しかし、米露中のような国は、基本的には国際ルールを守りつつも、安全保障上の問題に軍事力で対応する場合があることを忘れてはならない。(本稿は筆者の個人的見解であり防衛省を代表するものではない)

  • Thumbnail

    記事

    日本版「台湾関係法」を急げ!対中国戦略に建前論はもういらない

    ているものである。日本列島の九州・沖縄から台湾、そしてフィリピンに伸びている。 中国としては仮に対米戦争になったら日本列島を含む第一列島線を最前線として、米軍と正面衝突する腹づもりだということになる。 そのために第一列島線の内側の日本海や東シナ海を中国のいわば内海として日本やその他の国から奪い取り、掌中に収めてしまおうというのだろう。これはとんでもない思惑であり、このような中国のたくらみは絶対に阻止しなければならない。 そこで重要になるのが台湾だ。第一列島線を日本列島から延ばした延長線上にあるのが、台湾であるからだ。そして中国は台湾を自国の一部とみなし、武力統一の選択肢を捨てていないどころか、最近でも香港のような「一国二制度」を断固として拒絶する蔡英文政権に対し、武力による威嚇をたびたび加えている。 今年7月は中国共産党の結党100周年を迎えるため、記念すべき節目の年である。習近平国家主席としても、2期目の任期満了を迎える来年秋の党大会後に最高権力者の地位を保ち、長期政権を続けられるよう国内でその布石を着々と打っているとされる。 だからこそ、エポックメイキングな偉業として尖閣諸島や台湾に手を出してくるのではないかと警戒する観測は絶えない。 つい先日の今月9日、米インド太平洋軍のデービッドソン司令官が米連邦上院軍事委員会で証言し、「中国は今後10年以内、いや6年以内に台湾を併合しようとすると信じる」と、中国による台湾進攻の差し迫った可能性に警戒を露わにしている。 また、今月には米国のブリンケン国務長官、オースティン国防長官が初来日にあたり、米国務省が報道官声明を出し、尖閣諸島を念頭に「米国はいかなる東シナ海の現状の一方的な変更、またはそれら島々の日本の施政権を損なう試みに反対し続ける」と、強いコミットメントを発している。 このように、いわば台湾と日本は共通の地政学的脅威にさらされている「運命共同体」と言っても過言ではない。 そもそも有事の際の米軍との協力について規定した1999年の周辺事態法(現重要影響事態法)は、96年の米クリントン政権時の「台湾海峡危機」の発生を受けて、台湾有事の発生を想定して制定された法律であったはずだった。 そのため、仮に台湾有事となれば、日米は相互に協力して事態対処を進めることになるのは間違いないだろう。だが、それ以前に台湾有事はわが国のシーレーンに致命的な影響を与え、沖縄を含む南西諸島の島嶼(とうしょ)防衛をも脅かし、「周辺事態」どころか「日本有事」そのものだとも言える。訓練に参加した米軍三沢基地所属のF16戦闘機=2018年4月、航空自衛隊千歳基地 もちろん台湾の蔡英文政権も有事に対する備えを怠ってはいない。現代型F16戦闘機を66機、M1A2エイブラムス戦車108両、地対空ミサイルや対艦ミサイルなどを米国から購入する大型契約をたて続けに結んでいる。 最新鋭装備の購入契約の総額は174億ドル(約1兆8千億円)と台湾の年間国防予算を上回る規模にのぼっており、対中配慮から台湾への武器売却に消極的だったオバマ政権時と比べて大きな変化である。もっとも、それが中国の反発を引き起こし、先述のような数々の威嚇行動にも結びついている。進まない日台協力 しかるに日本の対応はどうかというと、日本が台湾を安全保障上の共通利害を有しているカウンターパートとして「重視している」と言うに言えない状況があるのだ。 仮に中国が台湾に対して軍事的冒険に出るとすれば、日本は米国と共同でそれを阻止しなければならない。先述の「重要影響事態法(旧周辺事態法)」に基づき、「そのまま放置すればわが国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態」として「重要影響事態」と認定し、同盟国である米国の軍事行動に対して日本の自衛隊は後方支援等の共同対処を求められることになるはずだ。日本自身の「存立の危機」に直結しかねないのだから自衛隊が動くのは当然だろう。 しかし、平時における日本の自衛隊と台湾の軍は、果たしてどのようなコミュニケーションをとっているのだろうか。「今、そこにある危機」に備えて、緊密な連携や情報交換を行っているのかというと、残念ながらそうではない。 日本と台湾では軍対軍、いわゆるミリ・ミリ(ミリタリー・トゥ・ミリタリー)の協力関係がないのである。これだけ地理的に近接し、安全保障上の共通利害を有していながら、両者による合同訓練や情報偵察衛星やレーダー情報といったインテリジェンスレベルの相互交換も(少なくとも公式には)行われていないのだ。 なぜそうなっているのか。理由は「台湾は国ではない」からだ。国ではない台湾とは国交がなく、「一つの中国」原則を支持する日本が台湾の軍を独自の軍隊とみなして公式に対話することはできないというわけだ。 しかし、同じく「一つの中国」原則を堅持している米国は台湾と軍事協力しているではないか。数々の最新鋭の武器売却が米国の意思を示す通りであるし、戦闘機パイロットへの訓練供与やサイバー攻撃に対処する両者の合同訓練も行われている。米国と日本のこのような違いはどこから生まれてくるのであろうか。 米国には台湾への軍事協力と防衛について規定する「台湾関係法」があり、上記のような武器供与や訓練は同法に基づいて承認されている。 同法第2条では「同地域(台湾)の平和と安定は、合衆国の政治、安全保障および経済的利益に合致し、国際的な関心事でもあることを宣言する」と規定されており、中華民国(台湾)との国交断絶後も外交・安全保障上の協力関係を継続する法的根拠となっている。 上記の「台湾関係法」第2条の規定に示されている米国の認識は、日本の私たちが台湾に対して抱いている認識とほとんど変わらぬものではないだろうか。ところが国会議員の中でも随一の親台派の1人として衆目の一致している岸信夫防衛大臣に衆院安全保障委員会で質問したところ、以下のような認識が返ってきた。衆院予算委員会で答弁する岸信夫防衛相=2021年2月5日、国会・衆院第1委員室(春名中撮影) 「台湾は、わが国にとって、自由や民主主義、基本的人権、法の支配といった基本的価値を共有している、緊密な人的往来、そして経済関係を有しています極めて重要なパートナーという位置づけであります。そして、大切な友人でもあるところです」とのことだ。 さすがお兄さまの安倍晋三前総理大臣と同じく親台派の岸防衛相と言いたいところだが、ここには米国の「台湾関係法」とは違って、日本にも台湾にも死活的な問題であるはずの「安全保障」の一言が外されている。「安全保障上の共通利害を有する」という点について、防衛相として明言を避けているのである。まだ遅くはない そして仮に台湾有事となった場合、日本にとってそれを「重要影響事態」と認定して対処行動を自衛隊が取る可能性が当然あるわけだが、その可能性を問うた私の質問に対しても、岸防衛相の答弁は以下の通りであった。 「今、台湾有事となれば重要影響事態になるかというご質問がございました。これも、この重要影響事態というものについて、政府が全ての情報を総合して客観的、合理的に判断するということになっておりますので、一概に述べるということは困難でありますが、その判断要素について申し上げるならば、実際に武力紛争が発生しまたは差し迫っている等の場合において、個別具体的な状況に即して、主に、当事者の意思、能力、事態の発生場所、事態の規模、態様、推移を始めとして、当該事態に対する日米安保条約の目的の達成に寄与する活動を行う米軍その他の外国軍が行っている活動の内容等の要素を総合的に考慮して、わが国に戦禍が及ぶ可能性、国民に及ぶ被害等の影響の重要性などから客観的、合理的に判断をするということになると考えておるところでございます」 中国が台湾に手を出した場合は日本は米国とともに行動する用意があると、言っていないわけでもないが、言っているわけでもないという歯切れの悪い答弁である。「重要影響事態」にならないわけがないと思うが、それすら「中国を刺激する」との配慮からか明言できないのが今の日本政府のスタンスなのである。 今からでも遅くはない。私は日本版の「台湾関係法」を制定し、台湾との外交・安全保障上の協力関係を公式に行えるようにすべきだと考える。 一足飛びに防衛装備品の供与や共同訓練にまで行かなくてもいい。台湾の呉釗燮(ジョセフ・ウー)外務大臣はインタビューに対して「まずは非軍事領域におけるサイバー攻撃に対する対処などの安全保障対話をやりましょう」と呼びかけている。日本の立場をおもんぱかっているのだ。 にもかかわらず、それにも日本側が積極的に応じていないのが現状だ。中国の反発を懸念しているのだろうが、わざわざ「非軍事領域で」と台湾側が言っているのにそれも拒否するというのはあまりにも及び腰ではないだろうか。 このままインテリジェンスの情報交換すら皆無のままで台湾有事が起これば、日本の自衛隊は台湾の軍と有効な協力ができずに、結果として日本の国益すら守り切れずに損なってしまう可能性もあるだろう。これだけ親日的で、共通の利害を有する、いわば「運命共同体」でありながら、日本が台湾を建前論でこれ以上ないがしろにするのは許されない。台北市の総統府で記者会見する台湾の蔡英文総統=2021年2月(総統府提供・共同) 19年12月には、私自らが団長となった超党派訪問団で台湾に行き、呉外相や、ITを活用した新型コロナウイルス対策で世界の注目を集めた話題のオードリー・タン(唐鳳)IT担当大臣にも対面する機会を得た。 中国海警法で脅威のレベルを上げてきた今こそ、中国による不測の行動に対して日本・台湾・そして米国とが緊密な連携により事態対処できる基盤を構築すべき時である。第一列島線の上にある私たちが中国の覇権のもとに置かれるような未来を現実のものとしてはならない。

  • Thumbnail

    記事

    「空気の支配」で科学の敗北に甘んじた原発事故が問うもの

    、上空からの線量率測定を実行する場面が近い将来起こり得るだろうかとも思えたからだ。自戒の念 また、核戦争が勃発したり核ミサイルが飛んでくるといったことも当時は考えにくかった。北朝鮮情勢が緊迫するのは、震災からずっと後のことである。いずれにせよ、あの事故がなければこの教育細目は消えていたかもしれない。 ところが原発事故により、この教育訓練は大いに役に立つことになった。事故当時、大宮から飛び立つヘリのパイロットは放射線を防ぐための鉛の防護服を着ては操縦ができず、座席の座面にそれを敷いて飛び立っていった。 そのときの土煙を、今でも思い出す。幸い取り止めなかった放射線の空中測定訓練を経験したパイロットたちも、数多く残ってくれていた。なお、ヘリによる放水冷却の前日に空中から3号機、4号機の線量率測定が実施されていたことは、あまり知られていない。 いずれにしても、自分にいかに先見の明がないか、また世の中の空気に流されやすいかを恥じ入るばかりである。 退官から7年後の19年に、福島県郡山市で講演したことがある。そこでは経営者の方々が震災復興にとても主体的で、意識の高いものを感じた。それでも、放射能は怖いという空気が会場に満ち満ちているのは衝撃であった。 確かに、放射線や放射能が怖いのは間違いないだろう。しかし、福島に関しては事故後の早い時期に国連の専門機関から安全宣言にあたるものが出されている。例えば14年4月には「原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)報告書:福島での被ばくによるがんの増加は予想されない」とプレスリリースさえ出されている。 しかし、そのことを郡山の人々は知らない。国連の関係者はわざわざ来日し福島まで来て講演会まで開いてくれたらしい。放射線と福島の現状の正しい理解を普及するためである。ところが、実際の講演では人が集まらなかったそうだ。福島第1原発事故を受けて、警戒区域で側溝にたまった高線量の落ち葉などを撤去する自衛隊員ら=2011年12月8日、福島県・浪江町役場前(大西史朗撮影) さらに当時のメディアや一部のデマゴーグたちによる扇動的な言葉によって、「放射能は怖い」という空気だけが独り歩きしてしまった。そこには、サイエンスは不在であった。上述の通り、残量放射線が科学的に安全だと証明されたなら、それらは怖い存在でなくなる。  こう考えると、科学者の役割の一つには「一般市民に正しいサイエンスの部分を分かりやすく伝え、広報することもまた求められるのだ」と感ずる。空気の支配 今年は先の大戦が始まった真珠湾攻撃から、ちょうど80回目の年にあたる。昭和天皇独白録の中に「あの戦争の敗因は何であったか」という問いにお答えする場面がある。戦略的な視点を持った人材の不足や、下克上の風潮といったことの他に、昭和天皇は科学技術の軽視を挙げておられた。 戦前戦中の精神主義への偏重とあわせて、当時の日本にはそんな空気が支配していたのかもしれない。 先の大戦の開戦前には、若手官僚とえりすぐりの民間企業エリートを集めて総力戦研究所なるものが立ち上げられ、日米の戦争推移がシミュレーションされた。結果は、どうやっても負けるというものだった。 不足する石油を求めて南方に出て行っても、輸送船をことごとく沈められ、最後はソ連が参戦して終わるというところまでリアルに描き出している。それでも、戦争は止められなかった。 日本海軍の永野修身軍令部総長は、欧米との開戦前にその苦悩の胸中を述べている。「戦うも亡国かもしれぬ。だが、戦わずしての亡国は魂までも喪失する永久の亡国である。たとえ一旦の亡国となるとも最後の一兵までも戦い抜けば、我らの子孫はこの精神を受け継いで、再起三起するであろう」と。 ただ、フランクリン・ルーズベルト大統領による、日本人には狂気に感じるような対日強硬策を考えれば「開戦」こそが国民を支配する空気だったのかもしれない。 けれども永野軍令部総長を含めて多くの戦争指導者たちが、空襲による国土の焦土化と民間人を巻き込んだ凄惨な沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキの原爆やシベリア抑留の惨状をイメージした後で開戦の決断をしただろうか。 さらに言えば、その発端である日中戦争さえ、その時点で多大な戦費と犠牲者を出していた。戦争そのものをやめるないし終わらせる政策を、戦争指導者たちはなぜ実行できなかったのか。 「いつの間にか始まっていた」という多くの関係者の言葉が、当時の空気の支配の怖さを物語っている。しかしそれは、今の新型コロナとの戦いにも言えることかもしれない。かつて捜索活動に携わった陸前高田市を訪れ奇跡の一本松に向かい黙祷する自衛隊員=2012年3月9日、岩手県陸前高田市(頼光和弘撮影) この1年ほど、PCR検査という言葉が広く知られるようになったときはないだろう。もちろん、PCR検査はこのコロナ禍に合わせて開発されたものではない。かつて陸上自衛隊でも生物兵器の脅威を受けて、バイオ検知器の導入が検討されたことがあった。 しかしその際、PCRは採用しなかった。増幅を何十回も繰り返せば、昨今話題となっている偽陽性や偽陰性といった誤報は避けがたいという判断である。コスト面でも、とても折り合うものではなかった。 それが現在では世の中で時代の最先端機器となっている。もっとも最近では、日本政府が新型コロナウイルスを検出するためのCt値(ウイルス遺伝子数)をこっそりと下げて、海外基準に適正化したという話もある。この第3波がほぼ終息に向かい出したのは、日本の厳しいCt値を適正化したからだという見方も存在する。  そもそもCt値が高ければ、たとえ微量のウイルスでも検知されてしまい、いわゆる「無症状者」が増えてしまうのだ。繰り返される過ち メディアでも、知識のないコメンテーターや門外漢の知識人らが、各々の感情や空気に合わせ、科学や事実に基づかない論調で過剰に恐怖をあおっている。それによって感化された一部の国民が自粛警察やマスク警察信者となり、他者への危害や風評被害を生み出している。 その結果、医療従事者をはじめ現場で社会を支えている人々が犠牲になるという構図は、先の大戦のときと変わっていないのではないか。 個人的な体験を話せば、私の祖母はどういうわけか原爆手帳を持っていた。広島から遠く離れた周防大島(山口県)の小さな集落に暮らす祖母がなぜそんなことになったのか。 それは息子が宇品の海軍倉庫で働いていたのである。8月6日には、広島の方向から大きなキノコ雲が上がるのが周防大島からも見えたという。祖母は、被爆直後の広島になんとかたどり着き、息子を探し回った。 そんなファミリーヒストリーを持つ家族は、広島近郊には数多くいるらしい。空気の支配の結果、地獄を見ることになるのは、怏々(おうおう)にして地をはっても生きていこうとしている人々である。それは、コロナ禍でも同じかもしれない。 話を原発に戻そう。皆さんは、津波が福島第1原発を襲う映像をご覧になったことがあるだろうか。当時の映像を見ると、あの日は空が暗く、白く高く砕け散る波頭が見える。 そこで気づくのは、原発の敷地だけが海面近くで、周囲は高い崖になっていることである。およそ20メートルほどあるかと思えるのに、なぜ原発だけが低地にあるのか。 それは建設の際、ぎりぎりまで掘削し掘り下げたからである。冷却のための海水を取り込むのには、低い方が効率がよい。建設当時は経済優先、利潤追求が時代の空気であり、津波のリスクは顧みられなかった。 だが、震源から最も近い女川原発はどうだったのかというと、まったく無傷であった。女川では福島とは逆にかさ上げをして、原発は高い位置に建設してある。宮城県の東北電力女川原発2号機=2020年8月21日 なぜなら、当時の東北電力の幹部がそうさせたからだ。彼は仙台市の浪分神社の近くで生まれた。この神社は内陸数キロまで津波が進入したことから、その名の由来があるという。数百年ごとに巨大な津波が来るというのはサイエンスである。だが、空気の支配に流されれば、その代償は大きい。 震災から10年。そしてコロナ禍という新たな未曾有の災害の中で、われわれは「空気の支配」「科学の軽視」という過ちを、今後も繰り返さないと言えるだろうか。

  • Thumbnail

    記事

    GHQの洗脳工作で骨抜き?「日本人に覇気なし」悲観論を疑え

    濱田浩一郎(歴史家) ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)とは、大東亜戦争の罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画のことである。敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が日本占領政策の一つとして、心理的に戦争責任を負わせるために行った。 例えば、CIE(民間情報教育局)は1948年2月、WGIPの第3段階の計画の原案を以下のように作成した。1、日本政府へのメモの目的は、裁判と判決言い渡しの期間極東国際軍事法廷に日本政府が新聞、ラジオ、ニュース映画の報道のための十分な施設を敷設するよう求めること。2、これらの追加の設備は裁判と判決言い渡しの間厳重なセキュリティ・チェックを行うために、また占領軍が日本国民に戦争責任を認めさせるという責任を果たすために必要とされる。(中略)敗戦の事実と戦争責任について、日本人の現在および未来の苦しみと窮乏の責任が軍国主義者たちにあることについて、また連合国の軍事占領の理由と目的について、あらゆる階層の日本人にはっきりと理解させること。3、この目的を達成するためにCIEは占領の当初からWGIP(極秘扱い)を実施してきた。 占領軍は、言論統制や検閲、プロパガンダ本「太平洋戦争史」(中屋健弌訳)の刊行、映画、ラジオなどの手段を使って、米国は正しく、日本は戦争中に残虐行為をした悪者とのイメージを日本人に刷り込んでいった。そうしたWGIPについては以前より論争の種となっている。 WGIPの実態を世間に知らしめたその代表的存在は、1999年に自死した文学評論家の江藤淳氏であろう。江藤氏は「閉ざされた言語空間」(文春文庫)で、米国国立公文書館分館所蔵の占領軍関連文書を読み解き、検閲の実施過程とWGIPの不当性を訴えた。前述の「太平洋戦争史」についても「戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定するとともに、歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖したという意味で、ほとんどCCD(筆者注、民間検閲支隊)の検閲に匹敵する深刻な影響力を及ぼした宣伝文書」とした。 WGIPの不当性や害悪を訴えてきたのは江藤氏だけではない。教育学者の高橋史朗氏もその一人である。高橋氏は「占領軍の指導によって、文部省が『太平洋戦争史』を学校で教えるように、という通達を出しました。ここで完全に歴史の断絶が始まり、パラダイム転換が起きたわけです(中略)国家も個人もアイデンティティーを喪失し、自分がいったい何なのかわからなくなってしまっています」(同氏著「歴史の喪失」、総合法令出版)と論じている。江藤氏や高橋氏は、WGIPが戦後日本人に与えた影響は大きいとする。 それに対し、歴史学者の秦郁彦氏は著書「陰謀史観」(新潮新書)で「彼(筆者注、江藤淳)の空想力はさらに膨らみ、教科書問題も土下座外交も南京虐殺論争も、すべてCIE製の宣伝文書に端を発する空騒ぎにされてしまった」と述べ、WGIPの影響力を過小評価している。また、「GHQ洗脳説は誤りである」(ムゲンブックス)を書いた若林幹夫氏は、WGIPの影響によってではなく、日本人は敗戦直後からすでに先の大戦を自ら否定的に捉えていたとする。名城大非常勤講師の賀茂道子氏も著書で、WGIPの効き目はそれほど大きくなく、日本人に対する啓蒙活動、意識改革だったと述べている。極東軍事裁判でウエップ裁判長の判決文の朗読を聞く(前列左より)東條英樹、岡敬純、荒木貞夫、武藤章、(後列左から)平沼騏一郎、東郷茂徳、佐藤賢了、重光葵の各被告=1948年11月 賀茂氏などの「WGIP影響力過小評価論者」に対する反論書としては、早稲田大教授、有馬哲夫氏の「日本人はなぜ自虐的になったのか」(新潮新書)がある。有馬氏は、賀茂氏が「WGIPの第3段階は実施されなかった」と主張していることに異議を唱え、当時の新聞・ラジオ放送を検証し、実施されていたことを明らかにした。 有馬氏は同書で「(賀茂氏は)占領軍が、日本のために、日本人を民主化し、啓蒙するために、WGIPなどの施策を行ったと考えているようですが」と指摘した上で、「(WGIPなどの諸政策は)あくまでアメリカの利益のために、アメリカにとって都合のよい日本に改造するために行われたものです」と結論づけている。この点に関しては、有馬氏に若干の誤解があるようだ。というのも、賀茂氏もWGIPが日本人のために行われた、とだけは考えていないからだ。賀茂氏は言う。占領期に、日本人に「敗戦の真実」と「戦争の有罪性」を認識させるために行われた情報教育政策「ウォー・ギルト・プログラム」は、「軍国主義を排除して、二度と米国の脅威とならない民主主義国家を作る」という米国の国益のために行われたものである。その一方で人道的理念にも支えられていたものであった。「日本人は本当に『ウォーギルトプログラム』でGHQに洗脳されたのか」(現代ビジネス) ここからは、WGIPによる「洗脳」の影響について筆者自身がどう考えているのか述べていこう。かつて、筆者は「日本会議・肯定論!」(たちばな出版)の第3章の一節「GHQの占領政策が日本人の精神的荒廃を招いたのか」の中で、「WGIPによって刷り込まれた歴史観(南京やマニラにおける日本軍の残虐行為の強調。日本が無法な侵略をした。軍国主義者への責任の押し付け等)が、マスメディア報道や学校教育の主流になってきたのは事実である」としつつも、以下のように述べた。「洗脳説」に違和感「洗脳の効果がどのように進行し、今に及んでいるかを実証するのは確かに難しい」「WGIPの効果や影響が全くなかったと断言することはできないし、だからと言って全てをWGIPのせいにするのも無理があるだろう。(中略)WGIPの影響と、日本人自らの戦争に対する批判的意見が絡み合いつつ、戦後の言論空間が形成されてきたと考えている」 この主張自体は、今も変わっていない。前述の高橋氏は、占領政策が日本の伝統文化を壊し、日本人の精神を荒廃させ、家庭や学校でもかつての日本には見られなかった事件が多発しているように述べているが、それはあまりにもオーバーではないかと思えたからだ。「戦前の少年犯罪」(管賀江留郎著、築地書館)などによれば、家庭や学校における殺人事件は、戦前も少なくない頻度で起きていたという。 また、WGIPの日本人への影響を大きく評価する論者は、よくこんな主張をする。日本の教育そのものが、大東亜戦争の大義を否定し、アメリカ側の「戦勝国史観」と「太平洋戦争史観」を広めるものとして「制度化」されてしまいました。これによって公教育の場で、組織的かつ徹底的に「自虐バイアス」と「敗戦ギルト」の摺り込みが行われ、占領が終わったのちもこれらが永続化することになりました。かくして、日本は「2度とアメリカに立ち向かうことがない国」になってしまったのです。「日本人はなぜ自虐的になったのか」(有馬哲夫) 有馬氏はこう述べているが、学校教育の日本史・世界史の授業において、それほど強固に戦勝国史観と太平洋戦争史観を植え付けられた人はどれほどいるであろうか。筆者自身の中学・高校時代を振り返ってみてもそのような記憶はない。高校の日本史の授業などは、時間が足りなかったのか、先生が近現代史をすっとばしていた。学校や教師の方針にもよるだろうが、近現代史が重視されないというのは、歴史教育の問題点としてよく挙げられるところだ。 「『2度とアメリカに立ち向かうことがない国』になってしまったのです」との記述にも違和感がある。戦後、日本人はそれほど覇気のない、ふやけた国民になってしまったのだろうか。反米の動きはなかったのか。そうではあるまい。60、70年安保闘争は反政府・反米運動だったではないか。沖縄でも反米デモが行われていることは周知の事実である。また、保守派の中でも対米自立、自主防衛を良しとする人々もいる。これらのことを思い返すだけでも「アメリカに立ち向かわない国」との規定が一面的であることが分かるのではないか。 有馬氏は「先の戦争で日本は悪をなした。だから、戦争をしてはいけない。戦争のための戦力を持ってはいけない。戦争はみな悪である、と。これはWGIPマインドセットによる『自虐バイアス』と『敗戦ギルト』の副産物だと考えられます」とも述べている。こうした人々がいるのは確かだが、これをWGIPの副産物とする見方はどうか。単に、その人が思考停止に陥っているか、無知か、「絶対平和主義者」かではないだろうか。空襲で破壊された大阪市街地=1945年10月 戦後のあらゆることについて「WGIPのせいだ」と鬼の首を取ったように言うことは、何でも米国に責任転嫁し、日本人自身の責任や主体性を見失うことにつながりかねない。筆者の杞憂(きゆう)であればよいが、そうした一抹の不安が残るのである。

  • Thumbnail

    記事

    BTSメンバー兵役延期、苦悩する韓国から読み解く「軍隊と国家」

    ないかと思います。論座 なるほど、この議論は研究者による「思考実験」としては、興味深い。確かに自分が戦争に動員され、そこで傷つき、あるいは死亡する可能性があれば、人は戦争を避けるようになるのかもしれない。 しかし、徴兵制が社会にもたらす効果はそれだけではなく、多様な面に及ぶ。そして世界では多くの国が実際に徴兵制を実施しており、われわれはこれらの国家の事例から、徴兵制が社会にどのような影響をもたらしているかを実際に観察できるはずだ。 先に触れた対談記事で、三浦はこうも述べている。「例えば韓国では、少なくとも若者にとって、徴兵制の存在が戦争を思いとどまらせる効果は十分にある」。では、韓国では徴兵制はどのような役割を果たしているのだろうか。以下、簡単に見てみることにしたい。 まず、韓国の徴兵制の歴史について見てみよう。今日の韓国軍は、米国軍政下にあった時代の南朝鮮国防警備隊を前身とし、1948年の大韓民国建国により、正式に「国軍」へと昇格した。 徴兵制はこの翌年、49年8月に成立した「兵役法」により、20歳以上の男性を対象として導入され、50年1月に最初の徴兵検査が行われている。しかし、この時点での韓国政府は深刻な財政的困難の中にあり、同じ48年に成立した朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)との厳しい緊張下に置かれたにもかかわらず、大規模な軍隊を持つことができなかった。 だからこそ当時の李承晩(イ・スンマン)政権は、50年3月、過大な財政的負担をもたらす徴兵制を、米国政府と協議した上でいったん廃止し、志願制へと移行することとなっている。このような韓国において、徴兵制が再び導入されたのは、言うまでもなく、50年6月における朝鮮戦争勃発がその理由である。 開戦当初の韓国軍の敗走と、臨時首都釜山への政府移転、という大混乱の中、制度的な不透明な根拠しか持たなかった「強制招集」の時期を経て、徴兵制が公式に再導入されたのは、51年5月25日における兵役法の再改正によってであった。その後、北朝鮮との厳しい対立の下、幾度もの制度的変遷を経て、韓国においては徴兵制が維持され続けている。板門店で南北軍事境界線を挟みにらみ合う北朝鮮の朝鮮人民軍将校(奥)と韓国軍兵士=2017年7月(共同) 結果、2020年の現在に至るまで、韓国では実に69年間にわたって徴兵制が維持され続けており、現在の韓国に生きる80歳以下の男性はほぼ例外なく、この徴兵制度とそれを定めた兵役法の下、暮らしてきた。 言い換えるなら、韓国の男性にとって徴兵制とそれによる兵役(あるいは制度的にそれに代わるもの)に関わる経験は、例えば小学校などの義務教育における経験がそうであるように、男性であれば世代を超えて共有されるものになっている。だからこそわれわれはこの事例から長期における徴兵制の実施が社会にどのような影響を与えるかを見ることができる。兵役は「苦役」 韓国においては徴兵制とそれによる兵役は、多くの国民が共有できる話題であり、常に大きな関心の対象となる。言うまでもなくその代表的な事例が、5年に1回行われる大統領選に向けての各候補者、あるいはその家族の兵役を巡る問題である。 例えば、1997年の大統領選では、当初、保守派(右派)の与党・新韓国党の前代表だった李会昌(イ・フェチャン)が圧倒的な支持率を誇っていたが、中途で子息の兵役逃れ問題が浮上したことにより支持率を急落させ、結果、進歩派(左派)の野党・新政治国民会議の金大中(キム・デジュン)に敗北する、という事態が起きている。 つまり、韓国においては徴兵制を巡る問題は、大統領選の帰趨を決めるほどの巨大な影響力を持つものなのである。そしてこのような事態は、進歩派(左派)の文在寅(ムン・ジェイン)政権の下にある現在においても変わっていない。 昨年秋に勃発した「曺国(チョ・グク)事態」では、当時の法務部長官であった曺国の米国生まれの息子が米韓両国の二重国籍状態にあり、これを理由により5度に渡って入営を延期していたことが大きな問題となった。そして曺国の後を受けて法務部長官に就任した秋美愛(チュ・ミエ)についてもまた、兵役中の息子に特別待遇を受けさせた疑惑が提起され、一時期、世論を大きくにぎわした。 それではなぜに韓国では政治家やその家族の兵役に関わる問題が、常に大きな議論の対象となっているのか。それは何よりもこの徴兵制が実施されてきた69年間に、韓国人の多くが兵役を経験し、兵役とは苦役である、とする認識が深く浸透していることにある。 しかもそれは必ずしも軍隊における経験が、彼らにとって大きな肉体的あるいは精神的負担をもたらしたからだけではない。20代における、兵役の経験は、すなわち、教育や実務で経験を積むことができる貴重な時期における経歴の断絶を意味しており、これを回避できるか否かにより、その後のキャリアパスが大きく違ってくるからである。 結局そのことは、多くの韓国人、とりわけ男性にとって兵役が、できるなら「避けたい」あるいは「避けたかった」ものと認識されていることを意味している。 ゆえに、この自らが「避けたい」「避けたかった」行為を、何かしらの方法に回避した人々には、強い怒りと、何よりも妬(ねた)みの感情がぶつけられる。すなわち、それはこういうことだ。兵役は苦役であり、貴重な若い時期のキャリアを断絶される辛いものだ。 だからこそ、自分が経験せざるを得なかったこの苦難を、他人がこれを回避することは許さない。こうしてすでに兵役を終えた人々が自らよりも若い人たちに、同じように兵役に就くことを要求する、というスパイラルが誕生する。つまり、徴兵制はいったん長く施行されると、それにより仮にその制度が不必要になってからも、これを容易に撤廃できない状況を作り上げるのである。 加えてこのような状況は、徴兵制の対象となっている今の若年層にとっては、新たな意味合いをもって現れている。※写真はゲッティイメージズ 今日の韓国では経済的格差が急速に拡大し、若年層の就職難が続いている。格差に苦しむ彼らの怒りは、時に、格差の中で利益を貪る「特権層」へと向かう。彼らにとって、恵まれた社会的背景を持つ人々による、例えば外国籍の取得や大学院進学、さらには徴兵に代わる専門的業務に就くに足る知識の獲得の結果としての兵役回避は、階層拡大が進む韓国社会の象徴として映っている。だからこそ、彼らはこのような機会を得た人々に激しい憎悪をぶつけることになる。そこにあるのも再び深い怒りと妬みの感情に他ならない。BTS兵役延期問題の意味 こうした感情は容易に、社会に対する不満と結びつく。朴槿惠(パク・クネ)政権下では大統領と特殊な繋がりを持つ人物の娘に対するさまざまな優遇措置が、同政権下における「特権層の不正」を象徴するものとして、若年層の大きな怒りを呼んだ。そこには分かりやすい「特権」があり、その「特権」への批判が存在した。 そして、現在の文在寅政権下においては、彼らが怒りをぶつける「特権」の一つが、兵役との関連で理解されている。つまり、ここでは徴兵制の下での、政府関係者子息への優遇が、やはり同様の「特権層の不正」の表れである、と見なされている。 これは、この社会においては兵役が一種の「ペナルティー」として理解されてしまっており、ペナルティーの回避が「利益」だと見なされていることを意味している。だからこそ実際人々は、これを回避するために努力する。 グローバル化が進み、国際社会での競争が激化する中、兵役の負担はさらに大きなものとなって表れる。兵役の義務は、これを有さない他国の人々との競争において、ハンディキャップとしてしか現れないからである。 だからこそ、彼らは時に外国国籍を取得し、進んで韓国国籍を離脱する行為をすら選択する。なぜなら「韓国人である事を放棄する」ことこそが、苦役であり、ハンディキャップである兵役を逃れる最も確実な手段だからである。 これらの点を理解して初めて、韓国におけるオリンピックのメダリストへの兵役免除や、最近の法改正で新たに導入された、韓国の男性音楽グループ「BTS(防弾少年団)」のメンバーらを念頭に置いた「文化勲章などを受けたアーティスト」に対する兵役延期制度の意味が分かる。韓国において兵役は大きな「ペナルティー」として認識されている。それゆえ「ペナルティー」の免除が、大きな「褒賞」として機能することになっているのである。BTSのメンバー=2019年12月、米カリフォルニア州(AP=共同) もちろん、韓国にとって徴兵制は北朝鮮との間の軍事的緊張関係に対応し、自衛隊の2倍を大きく超える60万人以上もの軍隊を維持するための重要な制度的柱となっている。 しかしながら、これは徴兵制が、この社会において兵役への肯定的な感情を広めることに寄与しているか、といえばそうではない。徴兵制は、戦時における死傷の可能性を大きく超えた、キャリアパス上の大きな負担として現れており、国際的競争が激化する中この負担はますます大きなものとなっている。 だからこそ人々は時にこれを回避するために、国籍離脱、つまり「国を捨てる」ことすら選択する。それは韓国社会において、徴兵制が社会からエリート層を離脱させ、「韓国国民」であることへの否定的認識を広める役割を果たしていると言える。それは徴兵制がこの国において、国民としての団結をむしろ妨げる方向で機能していることを意味している。 「思考実験」として徴兵制について考えるのは、確かに興味深い。しかしながら、その「実験」を真摯に行うためには、現実に実施されている徴兵制の下で、各国でどのような事態が進行しているかについて、より真摯な検討が行われなければならない。 そうでなければ、その議論はどこまでも「興味本位」で、「学者の思い付き」のレベルを出ることはない。そして何よりもそれこそが、真に軍隊、そして国家や国民について真剣に考えることだと思うのだが、いかがだろうか。(文中敬称略)

  • Thumbnail

    記事

    戦後以来の国難、渡辺大が映画「日本独立」で実感する芸能の真価

    を軸に描いています。 私が演じた、元海軍将校で小説家、吉田満の書著「戦艦大和ノ最期」は、優れた大東亜戦争の戦記文学であり、彼自身終戦直後の動乱の中で非常に重要な役割を果たしていました。白洲次郎や吉田茂と直接的な関わりはないものの、間接的に日本国憲法の草案などに影響を与えた重要な役どころです。「日本独立」で吉田満役を演じる渡辺大(©2020「日本独立」製作委員) 吉田満に思いを馳せれば、当時は米軍、つまりは連合国軍総司令部(GHQ)の思惑もあり、彼は本当に伝えたかったことが伝えられず、無念ではあったと思います。 ですが、その思いは後世に引き継がれ、今回の「日本独立」のような映像作品を通して、日本国憲法がどのような背景で作られ、今日に至ったのかを多くの人に知ってもらえる機会になったことは、演じる私としても非常に感慨深いものがあります。戦後の動乱期と被る今 憲法の存在自体は学校で学ぶので広く知られていても、戦後どのようにして作られていったのかという背景には深く触れられず、重要視されていないのが現状ではないでしょうか。 ただ、改めて考えれば、私たち日本人すべてに密接に関わっているものであることは間違いないわけですから、しっかりとそこに焦点を当て、学び考えることは大切だと思います。 とはいえ、座学だけで理解するのは難しいかもしれません。だから映画を通して身近でかつ重要な歴史として知っていただきたい。日本国憲法として改正されるまでにどのような苦悩があって今日に至ったのかを知ることは、今後の未来の日本を作っていく上でも重要になるでしょう。 そして「日本独立」の公開を迎えましたが、まさに今、新型コロナウイルス禍による国難を迎えているという点で、戦後の動乱期と類似していると感じます。 コロナ禍はよく「戦後最大の危機」と言われる中で、エンタメという分野自体、不要不急のものだと言われ苦悩した時期もありましたが、私は百歩譲って不急ではないとしても、決して不要ではないものだと自信を持っています。 尊敬する大先輩の俳優、津川雅彦さんも生前、「腹の足しにはならないが、心の足しにはなる」とよくおっしゃっていて、その言葉は私の心に深く刻まれています。「日本独立」出演についての思いを語った渡辺大(ケイパーク提供) こういう難局に見舞われているときは、感染者やマスクを着用していない人を非難するなど、心に余裕がなくなってくるものでしょう。そんなとき、不急であっても不要ではなく、多くの人の拠り所になり得るものの一つにエンタメも含まれていて、重要な役割を果たせるものだと改めて感じています。 長きにわたった戦争にも終わりがあったように、このコロナ禍も終わりは必ずくるでしょう。この苦境をプラスに変え、どう向き合えば自分の肥やしなるかを考えるきっかけ作りをエンタメが担い、人々の心の種や栄養になれるような、そんな存在であれたらと強く願っています。* * * わたなべ・だい 俳優。1984年、東京都生まれ。2002年「新春ワイド時代劇壬生義士伝」でデビュー。18年に映画「ウスケボーイズ」でマドリード国際映画祭・アムステルダム国際フィルムメーカー映画祭にて最優秀主演男優賞を受賞。現在、放送中のドラマ「#リモラブ」(日本テレビ)、NHKBSプレミアム「十三人の刺客」(11月)、WOWOW「コールドケース3」(12月)などに出演。2021年1月2日放送予定のNHKの時代劇ドラマ「ライジング若冲 天才 かく覚醒せり」、同年6月公開予定の小泉堯史監督の映画「峠」に出演するほか、4月からは宮本武蔵役で「魔界転生」で舞台に初挑戦する。父は俳優の渡辺謙。 映画「日本独立」【監督・脚本】伊藤俊也【出演】浅野忠信 宮沢りえ 小林薫 柄本明 松重豊 伊武雅刀 佐野史朗 石橋蓮司 梅宮万紗子 大鶴義丹 渡辺大 奥田瑛二    ※12月18日からTOHOシネマズシャンテ他にて全国順次公開

  • Thumbnail

    記事

    「責任と倫理」唯一の被爆国日本が感じるべき核兵器禁止条約の虚無

    も患者を励まそうと努力する。 高坂氏はこの物語を紹介した上で、著書の末尾にて次のように結んでいる。「戦争はおそらく不治の病であるかもしれない。しかし、われわれはそれを治療するために努力しつづけなければならないのである。つまり、われわれは懐疑的にならざるをえないが、絶望してはならない。それは医師と外交官と、そして人間のつとめなのである」賢人会議のメンバーを代表し、平和祈念像前に献花する元米核安全保障局長のリントン・ブルックス氏(左)と座長で熊本県立大理事長の白石隆氏=2018年11月、長崎市の平和公園 核廃絶についても同様であろう。方法論の相違を道義的に非難し合うのではなく、目標の共有を絶えず確認しながら、絶望せず、希望をもって現実的に漸進し続けるしかないのだ。

  • Thumbnail

    記事

    飛び交うフェイクニュース、旧ソ連諸国が引く現代型戦争のトリガー

    代後半から90年代初頭において、アルメニア(91年独立)とアゼルバイジャン(同年独立)との間に激しい戦争が起きた。いわばソ連崩壊の混乱の中で、92年にはアルメニア側による、アゼルバイジャン人に対する「ホジャリの虐殺事件」なども発生した。 94年には停戦となったが、アルメニア側がナゴルノ・カラバフの後ろ盾となり、一方的にアルメニア人によるアルツァフ共和国の独立を宣言した。だが、これは国際的には承認されず、結果としてアゼルバイジャン系の住民は多くが難民化し、アゼルバイジャンに逃れた。 ナゴルノ・カラバフというのは、「山地の」カラバフの意味だが、自治州だった地域周辺のアゼルバイジャン領もアルメニア側が占領してしまい、今日の対立へと至っている。国連は安全保障理事会や総会でも、アルメニアに対し占領を止め、撤退すること、ナゴルノ・カラバフがアゼルバイジャン領であることを安保理や国連総会決議でも確認してきた。アルメニアの焦り しかし、事態は何も進展していなかったというのが、今回の戦闘の背景である。このあたりの事情は、イスラエルがパレスチナに占領地を拡大していく過程と似た面がある。そのため戦闘が始まって以来、アゼルバイジャンは「占領地を解放すること」を目標に掲げているのだ。 ならば今回の衝突はアゼルバイジャン側が仕掛けたのかというと、どうもそうとは言えない。アルメニアでは、2018年に「ビロード革命」と呼ばれた民主的な選挙によって、現在のニコル・パシニャン首相の政権が誕生した。政権発足時には、長年の懸案だったアゼルバイジャンとの関係改善にも積極的だったが、1年もたたないうちに、アゼルバイジャンに対する挑発が目立つようになった。 転機は19年8月5日、彼はナゴルノ・カラバフの主要都市ステパナケルトを訪問し、「アルメニアとナゴルノ・カラバフとは一体だ」と訴えたことだった。これはアゼルバイジャン側にとっては政治的解決の道が閉ざされたことを意味するものだった。そして、今年7月には、北部の国境地帯で両軍の間で衝突が発生し、双方で17人が犠牲となったのである。  8月、英国のBBCは『ハード・トーク』という討論番組にアルメニアのパシニャン首相を招いた。司会者のステファン・サッカーは、かなり厳しい口調で「なぜナゴルノ・カラバフ問題で挑発するのか」を問いただした。首相は「ナゴルノ・カラバフは数千年にわたってアルメニア人の土地だ」と反論したが、司会者は「歴史を尋ねているのではない、今、あなたは何をしようとしているのか?」と畳みかけた。 しかし、パシニャン首相はそれには答えなかった。そして9月末の、今回の戦闘へと至ることになる。アルメニア側が挑発を繰り返した原因については、政権を掌握した後も経済が好転せず、新型コロナ感染対策の失敗も重なり、焦りがあったとも言われている。 対するアゼルバイジャン側は、四半世紀以上、不当な占領に対して軍事力による攻勢をかけてこなかった。アルメニアとは以前のセルジ・サルキシャン政権の時代に、具体的成果はなかったものの、政治的解決に向けての交渉を継続していた。その間アゼルバイジャンは、原油と天然ガス開発によって経済力を飛躍的に高めただけでなく、軍の組織改革と装備の拡充を図ってきた。 03年には病死した父のハイダル・アリエフから世襲による政権移譲でイルハム・アリエフが大統領に就任し、大統領に権力を集中させた。その意味では、アルメニアが西欧の民主国家型であるのに対し、アゼルバイジャンはロシアのプーチン政権に近い。国力については、一言でいえばアゼルバイジャンが圧倒的に勝っていた。国連総会一般討論でビデオ演説するロシアのプーチン大統領=2020年9月22日(AP=共同) アルメニアは先に述べたように、CISの集団安全保障条約によってロシア軍が5千人規模で駐留しているゆえに安全保障ではロシアを頼りにしていた。少なくとも軍事力の点で、アルメニアが単独で90年代のような戦争に乗り出せば不利なことは分かっていたはずであるし、ロシアが簡単にアルメニアを支援するものと期待していたのであれば、重大な読み違いをしたことになる。ここに、民主的なリーダーとして登場したパシニャン首相の未熟さが表れている。 戦闘が開始されると、さらに不可解なことが起きた。アルメニアのパシニャン首相に続いて、フランスのエマニュエル・マクロン大統領が突然「敵はトルコだ」と主張したことである。広がるプロパガンダ戦争 パシニャン首相は「トルコ軍がアゼルバイジャン軍を支援して戦闘に参加しており、トルコ軍のF16によってアルメニア軍のSu25が撃墜された」と発表した。 さらに、トルコはシリア内戦での反政府勢力からジハード戦士の傭兵を募り、アゼルバイジャン側に送り込んでいると主張するのである。パシニャン首相はこの戦いを「キリスト教vsイスラムの戦い」に例えた。トルコ、アゼルバイジャン両国は即座にこれを悪質なデマだと否定し、パシニャン首相とマクロン大統領を激しく非難した。 だが、シリアの戦闘員をアゼルバイジャン側に加勢するために派遣したという話は瞬く間に世界に広がり、日本の主要なメディアも全て追随した。これは今回の戦闘における、最大の「プロパガンダ戦争」の始まりだった。 筆者自身も現地にいるわけではないから、以下はあくまで論理的に見て、これはあり得ないという見立てであることを留意されたい。 シリア内戦でトルコが支援する反政府勢力の多くは、イスラム系スンニ派のジハード組織である。しかし、アゼルバイジャンのアリエフ体制は、そもそも父のハイダルが共産党と秘密警察である国家保安委員会(KGB)の幹部だったことから分かるように、イスラムに限らず宗教が政治に出てくることをひどく警戒している。そのため、友邦トルコにイスラム主義政党の公正・発展党政権が誕生した2000年代以降、エルドアン政権のイスラム主義志向には接近しなかった。 心情的には「民族の義兄弟」と言いつつ、リアルポリティクス(現実政治)では一定の距離を保ってきたのである。そのアゼルバイジャンにとって、シリアなどから来るスンニ派の戦闘員というのは、テロリストと同義であるから受け入れる可能性はない。もちろんトルコもそのあたりの機微を熟知しているから、シリアから戦闘員を送ることはない。これはアルメニア側が国際社会の同情を買うためのフェイクニュースであると思われる。実際、戦闘が開始されて2週間がたっても、シリアから送り込まれた戦闘員の証拠は出ていない。 このフェイクニュースに信ぴょう性を与えたのは、トルコが北アフリカのリビアへも傭兵の戦闘員をシリアから派遣したという情報である。この問題に深入りする余裕はないが、リビア内戦に関してトルコは、国連が承認している暫定政権側を軍事的にも支援している。この軍事支援には、もちろん国会の承認を得ているから周知の事実だ。トルコ・イスタンブールで演説するエルドアン大統領=2020年8月(AP=共同) リビアで反政府側の軍閥であるハリファ・ハフタル将軍派を、ロシアは傭兵派遣企業を通じて兵員を派遣している。トルコもそれを知っているので、同等の活動を展開するためには傭兵企業を通じてシリアから戦闘員を派遣することは、戦略としてあり得ることになる。こうしたリビアへの傭兵派遣の話から、今回のアゼルバイジャンへの類推はロシアの報道にも見られた。なぜならリビアで対立するトルコの行動にロシアが不快感をもっていることは明らかだから、当然、この種の報道はロシアからも出たのだ。 しかし、ロシア政府はトルコを名指しして、ナゴルノ・カラバフ戦争に関与しているとは言わない。そこには同盟国ではないが、ケース・バイ・ケースで協力せざるをえない両国のあうんの呼吸がある。トルコ空軍のF16による、アルメニア空軍機Su25の撃墜報道も同じで、その後、確たる証拠が出ていない。だが、10月8日、ナゴルノ・カラバフに近い、アゼルバイジャン国内にあるギャンジャ国際空港にトルコ空軍のF16が民間の人工衛星によって確認されたという報道がなされた。曲げられるトルコの意図 この報道に関してアリエフ大統領は米CNNのインタビューでトルコ空軍のF16が国内にいることを認めたものの、戦闘には参加していないと否定しているが、結果として疑念を再燃させてしまった。 しかし、現在軍用機であっても、レーダー画像から撃墜が容易に解析できるにもかかわらず検証報道が出ないことからみて、筆者の見解としては、撃墜報道はアルメニア政府による意図的なフェイクニュースであるとみている。 さらに言えば、トルコがアゼルバイジャンに対するモラルサポートを強調したとしても、軍事支援を行ってアルメニアとの戦闘に出るのは、あまりにリスクが高いのである。それはトルコとアルメニアの間の歴史にある遺恨によるものだ。 第一世界大戦当時、アルメニア人が大量にアナトリア半島からシリア側に追放され、多くの犠牲者が出た。いわゆる「アルメニア人虐殺」である。この問題について、アルメニアとトルコ両国の立場は全く一致していない。この問題が発生したのは、現在のトルコ共和国が成立する以前のオスマン帝国時代のことであり、しかも帝国自体が欧州列強に侵略される中で、ドイツ側について第一次世界大戦に参戦し敗れ、国土もズタズタにされる寸前の時代であった。 当時欧米が持ち込んだ民族主義は、帝国時代には共存が成り立っていた諸民族、諸宗教の間に要らざる敵意を増幅させ、幾多の悲劇が起きた。そして多くのアルメニア人がその後、米国やフランスなど西欧諸国に移住したため、現在もなお、この問題は欧米からトルコに対するネガティブ・キャンペーンの主要な材料にされている。そのことを十分にわきまえているトルコが、アゼルバイジャンへの軍事支援のために、突然アルメニアとの戦闘を開始することなど、あり得ないのである。 昨年秋、トルコはクルド人のテロ組織、人民防衛隊(YPG)とクルド労働者党(PKK)を掃討するためにシリア内戦に介入したが、そのときもクルド人が虐殺されるという起こり得ないフェイクニュースが世界を駆け巡った。なぜならトルコ国内にも多数のクルド人がおり、近年はシリア北部での内戦を逃れてトルコに逃れたクルド難民も数十万人におよぶ。シリア北部アレッポで、アサド政権の部隊と銃撃戦を展開する反体制派武装組織「自由シリア軍」の兵士ら-=2013年10月(ロイター=共同) もしトルコが北シリアに介入する理由がクルド人の抹殺にあるのなら、先に国内のクルド人を弾圧するなり殺害するなりしないと話のつじつまが合わない。しかし、そのようなことは全く起きていなかった。このときは、米国が国際テロ組織「イスラム国」を掃討するためにシリアに介入して、同じく国際テロ組織であるクルド人武装組織のYPGと、米国でもテロ組織認定しているPKKを支援するという矛盾した行動をとった。 そこでトルコがついに「テロとの戦い」のダブルスタンダードだとして介入に踏み切り、あわや米軍と衝突する寸前までいった。「クルド人虐殺」のフェイクニュースは米国がさかんに流したが、このうわさはクルド人の多いヨーロッパでも増幅された。このあたりから、トルコはロシアとの協力体制を強化したのである。 トルコはさらにリビア内戦で国連承認の政権側を支援すると、フランス、エジプト、UAEなどから非難され、東地中海のガス田開発ではギリシャやフランスから激しい非難を浴びている。そうした国々の中でも、とりわけ合理性がないのがフランスのマクロン政権によるトルコ非難である。物事の本質を見極める フランスは地中海の東側には何ら利権もなく、キプロスに領土としての軍事基地を持った英国を差し置いて空母を派遣し、トルコをけん制するに至っては、トルコ政府も「常軌を逸した行動」と反論している。このような状況のもとで、国内では新型コロナの感染対策に注力している。そのさなかに、極めてセンシティブな歴史的関係を持つアルメニアとの戦争に乗り出す理由などトルコにはなく、それだけの財政的余力もない。 アルメニアのパシニャン首相が、「トルコがナゴルノ・カラバフでの衝突に介入している」、「トルコが主敵だ」と非難したのは、衝突が起きた直後であり、これはトルコ国民にとっては寝耳に水の話だった。トルコという国は国軍と情報機関への信頼度が高い。自国の安全保障や関連する情報は、事前に政府筋から流れるのが通例だ。そのため軍を派遣するには、議会で喧々諤々(けんけんがくがく)の議論をした上で議決している。 まったく何の前触れもなく、突然、アルメニアがアゼルバイジャンとの国境地域を攻撃し、アゼルバイジャン軍が反撃したというのがトルコで流れた第一報だったのである。その直後にトルコが関与していると報じられたことによって、逆にトルコ政府のみならず国民も事態の背景をすぐに理解した。一言でいえば、アルメニアのパシニャン政権が暴走したというのがトルコ側の理解である。そこでアゼルバイジャン政府との緊密な情報共有によって、紛争の調停をロシアに働きかけることに集中したのである。 この問題に関するトルコの立場は以下の2点と明確である。・ナゴルノ・カラバフがアゼルバイジャン領であり、アルメニアは違法な占領をやめて占領地から撤退しなければならない。・本件に関して、アゼルバイジャンがとる決定について全面的に支持する。 現時点でトルコ自身はあくまでモラルサポートに徹し、アルメニアの挑発には乗らない姿勢を明確にしている。そしてロシアがこの問題に関して、アルメニアに冷静な態度を促すことを期待している。 実際、ベラルーシでの反政府デモ、さらに政敵アレクセイ・ナワリヌイ氏への毒殺未遂疑惑で国際的非難を受けているプーチン政権にとって、ここでアルメニアがアゼルバイジャンと衝突したことは不愉快な事件以外の何物でもない。しかもパシニャン首相は前任者たちと異なり、彼が欧米諸国に認められようと動いてきたことも、ロシアにとっては不快感を増幅させる一因となっている。アルメニア側が実効支配するアゼルバイジャン・ナゴルノカラバフ自治州で、戦闘に巻き込まれ負傷した2歳男児に付き添う母=2020年9月29日、ステパナケルト(ゲッティ=共同) ロシアが停戦順守を両国に訴えたのにもかかわらず、10月12日の段階で停戦は機能していない。さらに、両国は自国民に犠牲者が出ていることを国際社会に訴えている。この問題でのプロパガンダ戦争の検証を妨げているのは、新型コロナウイルスである。モスクワに拠点を置くメディアも、ヨーロッパに拠点を置くメディアも、現地で取材をすると帰国できない可能性が高い。したがって、両国の発信する情報、それも移民の多いアルメニア側の情報が圧倒的な強さをもって世界中に流布する状況をつくり出していることに疑いの余地はない。 日本において、この紛争を取り上げる報道は少ない。だが、南カフカス地方の小国同士が繰り広げるこの紛争は、現代の戦争の姿を体現している。ドローンによる攻撃、会員制交流サイト(SNS)やフェイクニュースによる情報戦など、新たな形の戦いが見て取れる。だからこそ、両者の歴史や背景、地理的要素など複合的な視点から分析し、安易に流されないようにすることが、国際関係のみならず、物事の本質を見極めるのに重要であろう。

  • Thumbnail

    記事

    「シベリア抑留」引き揚げ者と舞鶴 戦後75年に語り継ぐあの記憶

    戦後75年の節目を迎え、先の大戦について考える機会が増えたことだろう。中でも終戦を迎えながら帰国に困難を極めた「シベリア抑留」は戦後を象徴する歴史の一つだ。その主な引き揚げ港となった京都府舞鶴市に「舞鶴引揚記念館」がある。同館の資料に改めて目を向ければ、歴史を超えて語り継ぐべき「戦後」が見えてくる。テーマ『「引き揚げ者の街」舞鶴に刻まれた記憶』https://ironna.jp/theme/1103

  • Thumbnail

    記事

    終戦直後の引き揚げ、なぜ「国民的記憶」にならなかったのか

    群島)を支配していた。さらに満洲国といった傀儡(かいらい)国家を通じて中国東北を実質的に支配し、日中戦争が始まると、中国本土にも蒙古自治邦政府、南京国民政府といった傀儡政権を樹立した。最盛期には東南アジアも占領した。 1945年、大日本帝国は第2次世界大戦に敗れたことによって崩壊する。私たちは昭和天皇が国民に終戦を伝えた玉音放送が流れた8月15日を境に、大日本帝国の時代であった戦前と、日本国の時代となる戦後を切り分け、この年を起点に「戦後何年」といった呼び方をしている。 大日本帝国が崩壊すると、歌謡曲『リンゴの唄』(霧島昇、並木路子)が流れる平和な時代がスタートしたように思われがちだが、ここには大きく見落とされた現実がある。 大日本帝国が支配領域を拡大するにつれて、そこに日本人が渡っていった。国際化社会といわれる現在ではビジネスパーソンなどが海外に移り住み、アジアには約40万人の日本人が居住している。この数は敗戦時の樺太(サハリン)にいた日本人とほぼ同じである。同時期のアジアには、現在の9倍に近い350万人の民間人が居住しており、現在の大阪市の人口、270万人より80万人も多い。 これだけの日本人が敗戦によって「外国」となった地域に残留することになった。彼らが日本へ帰還することは海外引き揚げと呼ばれ、帰還者らは引き揚げ者と呼ばれた。ただし、彼らが平穏無事に帰還できたわけではない。岸壁で引き揚げ者を出迎える人々(舞鶴引揚記念館提供) ポツダム宣言を受諾する際、日本政府は在外出先機関に対して民間人の現地定着方針を指示した。民間人より先に将兵が帰国 理由は二つある。一つは物理的な理由だ。敗戦時、民間人350万人と、ほぼ同数の日本軍将兵がいた。 合計すると、当時の日本人口の1割にあたる700万人が残留しており、彼らを短期間で帰還させることは輸送能力から見て不可能であった。しかも、日本軍将兵の本国帰還を求めたポツダム宣言に従い、将兵を優先しなければならなかった。 その他にも機雷除去による港湾施設の回復や、住居や食糧の提供など課題は山積していた。そのため3~4年は帰還できず、その間は現地で自活することを求めたのである。 もう一つは、日本政府の国際情勢に対する見通しの甘さだった。日本政府はポツダム宣言を受諾すれば戦争は終わり、海外に残留する民間人や将兵は、連合国が人道的に取り扱ってくれると期待していた。満洲や中国本土では、数年間の自活を可能とするための代償として、旧ソ連軍や国民党に労務提供を持ちかけるほどであった。 しかし、現地定着方針は完全な失敗に終わる。現地の社会情勢が日本政府の予想をはるかに超えるほど悪化したからである。 中国では国民党と共産党との内戦が始まっていた。さらに、大戦最末期に旧ソ連軍が進攻した地域(満洲・北朝鮮・南樺太)は、直接の戦場となったことから社会的混乱が激しくなり、在住日本人の大量難民化にともなって死者が激増した。(舞鶴引揚記念館提供) 戦争とは究極の国家エゴであり、自国の利益を犠牲にしてまで他国を優先することはあり得ない。旧ソ連は独ソ戦で荒廃した国土の復興が第一であって、そのためには占領地にあった工場も個人資産も戦利品として持ち出し、労働力が足りなければ将兵をシベリアへ連行した。中国も復興のために日本人を利用し、できることは何でもさせた。そして、海外引き揚げに最も重要な役割を果たした米国も同じだった。 米国は、数年はかかるとみられていた日本人の帰還を、自国の船舶を使ってわずか1年余りで完了させた。しかし、これは日本への同情が理由ではなく、中国の安定化を図る上で残留する日本人、特に無傷で敗戦を迎えた100万人を超える支那派遣軍が障害となっていたからである。 日本政府の甘い見通しは外れたが、結果的には敗戦から1年余りという予想を超えた早さで大半の日本人が帰還できた。この外れた見通しと結果のギャップが、海外引き揚げの歴史を覆い隠してしまった。 早く帰還できたとしても引き揚げ者にとって、国家の庇護を受けられないまま難民状態に置かれた1年余りは、戦争が終わったとは決して言えない状況であった。リンゴの唄が「残酷」な理由 引き揚げ者は、崩壊した大日本帝国の清算を一身に引き受けた人々であり、犠牲者は満洲を中心に30万人近くに上った。亡くなった人の数では東京大空襲の8万4千人、広島の原爆の14万人、沖縄戦の民間人9万4千人を大きく上回る。しかも、犠牲者の慰霊は民間有志に限られ、今も遺骨は現地に埋もれたままである。 帝国の遺児となった引き揚げ者が故国にたどり着いたとき、大日本帝国は日本国という国になっていた。作家のなかにし礼が、満洲からの引き揚げ船で聞いた『リンゴの唄』を「残酷」と感じたのは、引き揚げ者と戦後日本の深くて越えがたい意識の断層をよく表している。 短期間で終了した海外引き揚げは、戦後日本の中で、国民的記憶にはならなかった。日本は戦後復興から高度経済成長を経て経済大国化していき、引き揚げ者の存在は顧みられることもなく、海外引き揚げの歴史は忘却されていったのである。 その一方で、10年にわたって長期化したシベリア抑留は、歌謡曲や映画にもなった『岸壁の母』などで広く知られることになる。京都府舞鶴市にある舞鶴引揚記念館が事実上のシベリア抑留記念館であることは象徴的である。 敗戦まで「帝国臣民」の一員とされていた朝鮮人や台湾人の存在も忘れてはならない。彼らも大日本帝国の拡大とともに居住範囲が広がり、敗戦によって現地に取り残された。 しかし、日本政府は現地定着方針を指示した際、彼らの庇護を放棄して連合国に丸投げした。彼らの祖国への帰還は日本人以上に困難であり、帰還後、さらに苛酷な政治の荒波に翻弄(ほんろう)されることになった。京都府舞鶴市の「舞鶴引揚記念館」(同館提供) 東アジアから東南アジア、太平洋にわたる広大な地域に支配を拡大していった大日本帝国の歴史は、まさに日本の近代史そのものであり、多くの民族を巻き込んだ点では東アジアの近代史でもある。 海外引き揚げの歴史が日本人の意識の奥底に沈殿し社会に埋没したことで、何ゆえに引き揚げ者が発生したのか、そもそも彼らはなぜ海を渡り、そこで何をしていたのかを深く考える機会が失われ、多くの日本人が大日本帝国を忘却する結果をもたらした。そして大日本帝国の記憶を封印したことが、東アジア諸国との歴史認識をめぐる軋轢(あつれき)の一因となったとも言える。 日本の将来は、アジアとの共存なくしては成り立たないであろう。しかし、経済的利益を追求するだけではなく、歴史を振り返る中で自らの立ち位置を定め、将来を見通す目を養わなければ、時勢に翻弄されるだけに終わる。 そのような意味において、海外引き揚げという歴史を通して、日本とアジアとの関係を再認識することは意義のあることではないだろうか。

  • Thumbnail

    テーマ

    「引き揚げ者の街」舞鶴に刻まれた記憶

    戦後75年の節目を迎え、先の大戦について考える機会が増えたことだろう。中でも終戦を迎えながら帰国に困難を極めた「シベリア抑留」は戦後を象徴する歴史の一つだ。その主な引き揚げ港となった京都府舞鶴市に「舞鶴引揚記念館」がある。同館の資料に改めて目を向ければ、歴史を超えて語り継ぐべき「戦後」が見えてくる。

  • Thumbnail

    記事

    家族愛や祖国愛…、舞鶴引揚記念館に秘められた世界的価値

    ということは、その地域にとっても重要なことです。 第2次世界大戦に関係する歴史は、現在に近い近現代の戦争をめぐる歴史であるだけに、常に敵味方や戦勝国と敗戦国、さらには加害と被害という観点から語られることの多い歴史です。そうした視点がどうしてもつきまとうだけに、記憶遺産としては本来、非常にハードルの高い分野であったと思います。舞鶴引揚記念館に所蔵された資料の価値について語る東京女子大の黒沢文貴教授=2020年9月11日、京都府舞鶴市(iRONNA編集部、西隅秀人撮影) 過去に登録された近現代史の分野の記憶遺産といえば、たとえばナチスによるユダヤ人迫害を逃れ、ドイツからオランダ・アムステルダムに移り隠れ住んだ少女アンネ・フランクによる『アンネの日記』がありますが、これを記憶遺産とすることに、あえて異論を唱える人はいないでしょう。 ですが、シベリア抑留や引き揚げとなると、そもそも終戦時になぜ約660万人もの軍人を含む在外邦人が存在したのかという問いを抜きにしては語れないこともあり、歴史認識をめぐる対立の中に引き込まれる可能性が高いため、そもそも記憶遺産に挑戦するには困難なテーマであったと思います。シベリア抑留は最長11年 とはいっても、抑留者や引き揚げ者がさまざまな困難や苦労、また筆舌に尽くし難い体験を乗り越えて舞鶴の地に降り立ったこと自体は、日本人が忘れてはならない歴史のひとコマであることに間違いありません。 シベリア抑留を経て引き揚げてきた人たちの存在は、戦争によって生まれたある種の悲劇です。戦争が終わった段階で、武装解除をされた段階で、かつてジャン・ジャック・ルソーが『社会契約論』の中で述べていたように、「武器をすてて降伏するやいなや、ふたたび単なる人間にかえった」、つまり軍人はもはや軍人ではなく、一人の人間、市民にたち戻った存在といえるわけです。ポツダム宣言に従えば、すみやかに故郷の家族のもとに帰れるはずであった人々です。 しかし、シベリア抑留者たちは、すぐには帰国できませんでした。東南アジアなど他の地域からの復員と引き揚げが進む中で、シベリア抑留者の引き揚げが始まったのは、終戦から1年以上経ってからのことであり、それも決して順調に進んだわけではありません。米ソ対立の冷戦構造もあり、長い人は11年に及ぶ抑留生活を強いられたわけです。その過程で、結果的に帰国できずに現地で亡くなられた方々が、約6万人もおられました。 翻って今現在、世界各地でさまざまな国際紛争や内戦によって故郷を失い、難民となってしまう極めて多くの人々がいます。シベリア抑留の人たちは、もちろん今日の難民や故郷喪失者とはまったく歴史的背景などの前提が違うので、同じとは言えませんが、戦争や紛争の惨禍、さらには国際情勢などが原因で、故郷への帰還が困難な人々という視点に立てば、似たような境遇と言えなくもないでしょう。 実はそうしたことも頭の片隅に置き、恐らく抑留と引き揚げの歴史をご存じではないユネスコの審査員の方々にどのようにしたらご理解いただけるのかに思いを巡らしながら、ユネスコへの申請書を執筆していました。もちろん日本が降伏した時点で、すでにソ連はドイツ軍人などの旧敵国人を大量に抑留して、祖国再建のための労働力にしていましたので、そうしたシベリア抑留と同様の同時代的な出来事も、申請書を書くにあたり重要な歴史として重視しました。 要するに、そうした人々に共通するのは、自らがコントロールできない、まったく不条理な状況に突然放り込まれ、筆舌に尽くし難い労苦を味わらなければならなかったということです。しかもそれは、なかなか終わりの見えない、心身ともに疲弊する労苦であったわけです。 国家というレベルではなく、一人ひとりの人間、個人という目線に立てば、そうした理不尽な境遇に置かれた人々が必死に残そうとされた資料には、その希少性も含めて、当然のことながら資料自体に大きな価値があります。自ずと人々に訴えかける大きな力が、資料そのものにあります。 なぜならそこに、人類共通の普遍的な思いを見いだすことができるからです。それは例えば、生への欲求、人間愛や家族愛、そして同胞愛や祖国愛という普遍的なレベルの思いです。恐らく、そうした視点を基調に据えて訴えたことが、ユネスコの委員の皆さんの胸に響き、記憶遺産としての価値を認めてもらうことに繋がったのではないかと思っています。 先にも触れましたが、「戦後から何年」という節目を迎えるごとに、残念ながら記憶は薄れていきます。ただ戦後の日本は、戦前に形成された「大日本帝国」が解体され、終焉を迎えたところから再出発しました。平和な文化国家へと変化していく、その大きな変わり目に、抑留と引き揚げの歴史はあります。引き揚げ者らを乗せた「高砂丸」を出迎える人たち(舞鶴引揚記念館提供) ですから、戦後日本社会の一側面を表すその歴史は、まさに国民が記憶し共有すべき戦後の大きな歴史のひとコマであるといえます。また、今日のように、国際的な相互依存関係が深まり、人々の往来や交流が盛んに行われている状況においては、自国の歴史をきちんと知るということが、他国の方々との親密な交流や無用な摩擦を避けるためにも必要なことであると思います。資料は「宝の山」 現在は国民国家の時代ですから、どうしても近現代の歴史は国単位で語られることが多くなります。しかし、国家は一人ひとりの人間によって成り立っています。ですから、抑留と引き揚げの歴史も、一人ひとりの個人の目線、その時代を生きた人間の苦悩や喜びに、もっと目を向けてみることが必要でしょう。歴史は一人ひとりの人間が織りなす営みによって生まれる、人々が紡いだドラマです。 その意味では、シベリア抑留の悲劇は、抑留者だけの問題ではなく、帰国を待ちわびる家族の問題であり、広くは同胞を迎える日本国民や社会の問題でもあります。抑留者とその家族にとっては、帰国後の生活の問題でもあります。 抑留者にとっても、家族にとっても、帰国と、それを待ちわびた末の再会によって、ようやく長い戦争が終わったわけです。その時点からが、真の意味での彼らの戦後の始まりであったといえます。国家レベルの戦後と個人目線に立つ戦後には、ギャップがあるという視点も、戦後を語る中では大切ではないでしょうか。 記憶遺産の審査基準には、唯一無二性がありますが、それは言葉を変えて言えば、一人ひとりの人間の生きた証となる資料を求めている、ということだと思います。誰それの残したものということが明確であることが必要であり、その点で舞鶴引揚記念館の記憶遺産に登録された資料も、その要件を十分に満たしたものばかりです。 私の舞鶴引揚記念館とのお付き合いは、同館の「あり方検討委員会」が舞鶴市に設けられて以来のことになります。特に委員会の答申に基づき同館が再び市直営となり、その後ユネスコへの挑戦を表明されてから、つまり2012年以来、その所蔵資料の調査にあたり、また記憶遺産への登録申請のための有識者会議会長としても、同館には携わってきました。 われわれ歴史研究者は、なによりも原資料に無上の喜びを感じますが、舞鶴引揚記念館の資料に初めて接したときの思いは、まさに宝の山に出会ったという印象でした。シベリア抑留に関する学術研究も、まだまだ発展途上の段階にありました。 記憶遺産の登録基準には、資料が本物であること、唯一無二の希少性、代替不可能な世界的重要性を持つものなど、いくつもの基準があり、それらを全てクリアしなければなりません。舞鶴引揚記念館の登録資料は、当然のことながら、そのすべての基準を満たしています。過酷な労働・生活環境の中で、筆記用具も満足に与えられない中で、抑留者たちは工夫を凝らし、必死の思いで生きた証として資料を残そうとしました。 しかし、強制収容所や帰還のために集結したナホトカ港での記録物の没収、さらには帰国した舞鶴での連合国軍総司令部(GHQ)の検閲により没収されたものも多く、現存していること自体が非常に貴重なものばかりです。舞鶴引揚記念館で展示されている世界記憶遺産に登録された「アドレスブック」=2020年9月(iRONNA編集部、西隅秀人撮影) その他、舞鶴引揚記念館には、帰国後に書かれた回想記の類や絵画、またスプーンなどの制作物など多数の資料が所蔵されています。それらは記憶遺産の基準からは残念ながら外れますが、抑留と引き揚げの歴史を知ることのできる、貴重な資料であり、それぞれが強烈な印象を与えるものばかりです。 シベリア抑留者は、ポツダム宣言の趣旨を踏まえれば、本来すぐにでも帰国できるはずだった人々です。それが事情も分からないうちに抑留され、酷寒の地で満足な食事も与えられずに過酷な労働を強いられたわけです。そうした環境下での肉体的な消耗はいうまでもなく、精神的な苦痛にも計り知れないものがあったでしょう。そうした極限状態に置かれた人間一人ひとりの魂の叫びが、それらの資料には凝縮されているのです。心打たれた抑留者の記述 記憶遺産に登録された多数の資料の中でも、最も印象的なものの一つに、シベリアで抑留されていた北田利氏が家族に宛てた「俘虜(ふりょ)郵便はがき」があります。これは往復はがきになっていますので、奥様も返信を出されています。 ただ、これらのはがきが全て宛先に届けられたわけではありません。抑留者と家族との間を結ぶ唯一の手段がはがきでしたが、それが届いているのかどうかに、当事者は非常にやきもきします。そうした北田夫人の心情は、夫人が残されたノートがあり、その中にはがきの内容も書き写されており、はがきとしては今日現存しないものでも、その内容を知ることができます。 北田氏は、抑留者の中でも最長となる11年間抑留されていました。その間の帰国を待ちわびる家族の心情や様子が、その夫人のノートには克明に記されています。11年間の心の変化や子供たちの成長ぶり、冷戦状況の中でなかなか帰国が実現しないもどかしさなど、さまざまな家族の思いがつづられており、まさに涙なくしては読めない内容です。心を打たれます。家族にとっても、夫が抑留されているということが、いかに過酷なものであったのかが、よく分かる資料です。 ユネスコの世界記憶遺産に登録されたことで、私自身は一定の役割を果たせたと思っています。ただ、記念館が所蔵する資料は、そもそも約1万6千点もあります。同種のものも多数ありますが、たとえば俘虜郵便はがきにしても、それら一つひとつの内容を精査していけば、強制収容されていた時期や収容所の場所による違いも見えてくるはずですので、それらの調査も今後の課題だと思っています。そうした調査を積み重ねていくことによって、シベリア抑留の実態や全体像が、より正確に明らかになってくるのではないでしょうか。 シベリア抑留の研究には、ロシア側の資料の利用が不可欠ですが、その意味で、舞鶴引揚記念館がユネスコの登録申請に向けて、抑留者のロシア側の送り出し港であったナホトカ市との共同申請を模索したことや、登録後も関連資料を調査する目的でロシア、中国、ウズベキスタンなどに調査団を派遣していることは、大いに評価できるでしょう。戦後も75年が経過して、新たな資料収集には困難がつきまといますが、実態や実像をさらに明らかにするための調査や研究は、今後も続けていければと思います。 さらに、そうした学術研究の進展や新たな資料の発見によって、シベリア抑留研究もより深まりを見せていくことになります。また時代の変遷に伴い、歴史解釈や歴史認識も変わることがあります。ですから舞鶴引揚記念館の展示の仕方や内容も、そうした変化の中から生まれる最新の知見を参考にしながら変えていく必要もあるでしょう。 正確な歴史的事実を国民が知るためには、舞鶴引揚記念館のような歴史博物館の果たす役割には極めて大きなものがあります。抑留と引き揚げの歴史をのちの世代に残していくためにも、かつてのような全国規模での応援が強く望まれるところです。舞鶴引揚記念館の外観(同館提供) 最後に、ユネスコ世界記憶遺産とは、登録資料の世界的価値の認定ですから、今は新型コロナの関係で海外の方の来館は難しい状況ですが、コロナが終息した後には、ぜひ世界各地から舞鶴引揚記念館においでいただければと思っています。もちろん日本各地の方々、特に若い方々の来館も切に願っています。(聞き手、iRONNA編集部) くろさわ・ふみたか 歴史学者、東京女子大現代教養学部教授。1953年、東京生まれ。上智大文学部史学科卒。同大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(法学)。専門は日本近現代史。都立日比谷高校、西高校の教員を経て、宮内庁書陵部に入庁。宮内庁書陵部編修課主任研究官として「昭和天皇実録」の編修業務にあたる。外務省「日本外交文書」編纂委員のほか、軍事史学会会長も務める。著書『大戦間期の日本陸軍』(みすず書房)で第30回吉田茂賞を受賞。その他の著作に『歴史に向きあう』『二つの「開国」と日本』(共に東京大学出版会)など。 

  • Thumbnail

    テーマ

    戦後75年、追憶の「大東亜戦争

    迎えることとなった。コロナ禍も戦後最大の国難とされるものの、やはり先の大戦とは比較にならない。そして戦争そのものは過ちだが、個々人の思いは別だ。75回目の終戦の日。改めて、計り知れない犠牲や苦悩を経て今の日本があることをかみしめたい。

  • Thumbnail

    記事

    大本営と作戦相反、激闘の沖縄で苦悩した陸軍高級参謀の慧眼

    戸部良一(防衛大名誉教授) 日本の敗戦が濃厚となった大東亜戦争末期、米軍からその戦術を称賛された陸軍将校がいた。 彼の名を、八原(やはら)博通。沖縄戦で戦った第32軍の高級参謀だ。その沖縄戦にて八原は戦略持久を図る作戦計画を立てるも、大本営による「ばかげた攻撃要求」の結果、自身の計画が一貫して実行されず、その目的を十分に達成することができなかったと自らの手記で批判している。作戦計画がそのまま実行されていれば、第32軍は相当の戦力を保持したまま終戦を迎えることができただろう。八原博通『沖縄決戦ー高級参謀の手記』 もし自らの作戦が実行できたなら、軍人・軍属合わせて約10万人の戦死者と、その戦闘に巻き込まれた沖縄住民の死者約9万人という、悲劇的かつ甚大な被害も少なくとも一部は避けられたのではないかと、八原は言いたかったのだろう。 南西諸島の防衛を任務とする第32軍は、当初飛行場の建設ぐらいしか期待されていない小規模の兵団だった。しかし1944年7月のサイパン島の失陥以後、フィリピンや台湾とともに沖縄も米軍の上陸攻撃対象の一つと予想されるようになると、決戦のために兵力を大きく増強されることになった。 これに応じて作戦主任であった八原は、攻勢主義を基本とする次のような作戦計画を立てた。 米軍は敵前上陸時に必ず海軍による激しい艦砲射撃と空軍による猛爆撃を行うが、第32軍は築城作業によって強化された洞窟陣地にこもって敵の砲爆撃をしのぎ、狭い上陸地区にひしめいて混乱状態にある米軍を、強力な砲兵と充実した歩兵戦力の機動によって叩く。 これが八原の計画であった。この計画に基づき、第32軍は洞窟陣地の築城と歩兵部隊の機動訓練に全力を注いだ。 ところが、44年10月に米軍がフィリピンに上陸すると、その危急に対処するため大本営は第32軍に対し、沖縄本島から1個師団抽出を命じる。第32軍はこれに抵抗したが、結局押し切られてしまう。 さらに大本営は抽出した兵力の補塡(ほてん)に本土から1個師団を派遣すると内示したにもかかわらず、それをすぐ撤回する。輸送中の増援師団が敵の潜水艦や爆撃機に襲われることを危惧したためである。大本営の措置は場当たり主義で、第32軍は不信感をますます強めた。第32軍の高級参謀を務めた八原博道(Wikimedia Commons) 沖縄本島の基幹兵力はそれまで3個師団および1個独立混成旅団だったが、そこから1個師団を引き抜かれたため八原は作戦方針の根本的な転換を図る。従来の計画では米軍の上陸地として3方面を想定し、それぞれ攻勢による決戦を構想していたが、兵力不足によりこの計画は成り立たなくなった。 八原は沖縄本島の南部、島尻地区に主力を置き、この地区の海岸に米軍が上陸すれば、これまで通り攻勢作戦によって決戦を行うことを想定した。だが、もしその北の中頭(なかがみ)地区の嘉手納に敵が上陸した場合攻勢の成功を期しにくいため、首里を中心とする南部に築いた堅固な要塞地帯に立てこもって戦う戦略持久に転換したのである。 そして45年4月1日、ついに米軍は嘉手納に上陸する。しかし第32軍は動かなかった。 八原は大本営が本土決戦の方針を示したころから、米軍との「決戦」よりも「戦略持久」を望んでいたようだ。米上陸部隊は海軍と空軍の支援を受け、強力な戦力を有しており、たとえ戦っても勝ち目はなかった。 そのため決戦を挑んで敗北を早めるよりも、できるだけ長く沖縄で米軍に対し多くの出血を強要し、本土決戦準備の時間稼ぎをしようと考えたのであった。その点で、敵の嘉手納上陸は八原の思うつぼであった。戦略持久に我慢できなかった陸軍 だが、動かない第32軍に対して、大本営と上級司令部である台湾の第10方面軍は攻撃を督促する。対立の焦点となったのは、中頭地区の2つの飛行場であった。大本営としては、沖縄で特攻を主体とした大規模な航空作戦を展開しようとし、そのため二つの飛行場確保を重視した。 一方、八原にとっては戦略持久を徹底させるため、二つの飛行場を放棄することもやむを得なかった。そして案の定、米軍の上陸後まもなく飛行場は敵の手に落ちてしまった。 大本営と第10方面軍は、第32軍に対して再三にわたって飛行場奪回を要請したが、それは八原からすれば戦略持久の意味を理解していないに等しかった。しかし、戦地から遠く離れた東京では、昭和天皇さえも「現地軍ハ何故攻勢ニ出ヌカ」と疑念を表明した。 「攻勢に出ないのは、消極的で臆病だ」との非難に耐えられなくなった第32軍司令部は、八原の反対を押し切り、4月8日を期して飛行場奪回のために攻勢に出ることを決めた。ところが、その直後に新たな米軍船団の接近が伝えられ、主力陣地の側背を脅かされる危険性が生まれたため、攻勢作戦は中止となった。この攻勢作戦の中止により、第32軍は再度腰抜けだと言わんばかりの批判を受けることになる。 なお、第32軍参謀長であった長(ちょう)勇中将は、少佐時代に陸軍の未発のクーデター計画である十月事件へ関与するなど、乱暴かつ豪快な軍人として有名であった。第32軍の攻勢中止を聞いた参謀本部作戦部長の宮崎周一中将は、長について次のように日誌に書いている。長中将モ真ニ攻撃精神旺盛ナル軍人トハ申シ難シ、余リ口ニ強キハ実ハ必スシモ然ラストノ原理ヲ実証ス。『宮崎周一中将日誌』 長は八原の反対を排して、4月12日に夜戦攻撃を試みた。攻撃は失敗したが、中止の決断が早かったため損害は大事に至らなかった。その後、首里城の洞窟陣地に司令部を置いた第32軍は戦略持久に徹し、敵の攻撃に抗しつつ主力を保持したまま1カ月も持ちこたえた。 八原は戦略持久という戦術に自信を持ち始めていた。しかし、軍司令部では、司令官である牛島満中将や長参謀長をはじめ、八原以外の参謀たちの大半が再び攻勢に傾いていった。 そもそも、戦略持久では米軍には勝てなかった。いずれは負けることが明らかだった。そのため司令部内では「どうせやられるなら力のあるうちに攻撃に出よう。このまま消極受動に立って、敗北と死を待つのは耐え切れぬ」という心理が膨らんでくることは避けられなかった。八原が主張する「攻勢はたとえ一時的・局部的な勝利を得られるとしても、結果的には敗北を早めるだけだ」という考えは受け入れられなかった。沖縄戦で日本のトーチカを攻撃する米軍 八原は日本軍の将校について、次のように述べている。高級将校:感情的・衝動的勇気はあるが、冷静な打算や意志力に欠ける幕僚:    主観が勝って、客観が弱い。戦術が形式的技巧に走って、本質を逸する。     技巧は良いがデザインは下手。     感情に走って大局を逸し、本来の目的や本質を忘れる。 まさに、彼の体験に基づく述懐と言えよう。 そして5月4日早朝、第32軍は攻撃を開始する。だが八原の予想通り、作戦は失敗に終わり、翌日夜には中止となった。やがて首里の戦線は崩壊し、戦力を大きく減らした第32軍は5月下旬に喜屋武(きゃん)半島を目指して後退する。巻き込まれた住民の被害が急増するのはこのころからである。理解されなかった八原 そのころ、航空参謀の神(じん)直道少佐が連絡のため大本営に派遣されることになった。東京に戻った神の報告では、八原について次のように記されている。軍参謀長ト参謀間ニ作戦思想ノ不一致 消極的性格ノ暴露 八原ノ不忠 一切ハ智ニアラス人格ナリ もちろん、長と八原との間に作戦思想の食い違いが見られたことは事実である。だが八原は、参謀長の意見に基づいて司令官が攻勢作戦を決断したとき、それに反対でも(その不満を顔に出すことはあっても)決定には従った。 神が報告した「不忠」というのは中傷に近いであろう。八原は軍司令官や参謀長の判断の誤りに批判の目を向けることはあっても、牛島や長の人間性、2人の軍人としての姿勢に対する敬意は変わらなかった。 彼は自分の戦略判断に強い自信を持ち、論理を突き詰めて作戦計画を立てた。それを「智」が勝っているというならば、そうだったかもしれない。だが、たとえ人格者ではなかったにしても、彼の人格に欠陥があって、それが「消極的」な戦略持久につながったというのは不当と言うべきである。 しかし、戦略持久が消極的であるという見方は、大本営の中に浸透していた。『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』によると、5月末、戦争指導を担当していた参謀本部第12課は第10方面軍の状況報告を聞いて「兵力温存絶対持久主義」が沖縄作戦を害したと批判し、それが本土作戦をむしばみつつあると憂慮している。ついぞ、八原の戦略持久は理解されなかったのである。 そして6月23日早朝、牛島と長の自決をもって第32軍の組織的な軍事行動は終わる。八原は2人の自決を見届けた後、事前の命令に基づいて沖縄戦の実態を報告し、本土決戦に参加するため東京を目指した。しかし、彼は沖縄を離れる前に米軍に捕まり捕虜となる。当時42歳であった。沖縄の慶良間諸島阿嘉島海岸に初めて掲げられた星条旗=1945年3月 八原によれば、沖縄の戦いは「決戦か持久か」という点で、作戦目的が「混迷」したとされる。大本営は航空決戦を言うばかりで、それが成り立たない場合、どのように地上戦を戦うかを明示しなかった。 さらに、事前に通知されたはずの第32軍の作戦計画について諾否を言わず、作戦方針を協議しようともしなかった。連絡あるいは協議のために現地沖縄に誰も送り込んではこなかった。攻勢を要請しながら、援軍を送ろうともしなかった。大本営としては、送れば途中で海没することを恐れたためである。 英国の軍事史家、H・P・ウィルモットは「沖縄における日本軍の損害は敵に与えた損害と釣り合わず、損害に見合う時間を稼ぐこともできなかった」と論じつつも、次のような点を指摘している。 5月4日の「思慮に欠ける攻勢」を除けば、第32軍は戦いを長引かせ米軍にできるかぎりの出血を強いるため防御戦闘に徹した。島尻地区の日本軍の拠点が除去されるまで、米軍は沖縄の飛行場の安全を確保できなかったので、空母艦隊を沖縄海域にとどめなければならなかった。そのため、日本軍特攻機の絶え間ない攻撃に曝(さら)されることになった。『大いなる聖戦―第二次世界大戦全史』 八原の戦略持久は、大本営の無理解と現場無視の干渉にもかかわらず、少なくとも一部はその目的が達成されたと見るべきだろう。 沖縄戦、そして戦後から75年がたった今、八原が残した教訓からわれわれは何を学ぶべきであろうか。

  • Thumbnail

    記事

    樋口季一郎の埋もれた功績、ユダヤ人を救ったもう一つの「命のビザ」

    の人であった。日本はすでに国家として降伏を受け入れていたが、樋口は旧ソ連軍の侵攻に対する戦いを「自衛戦争」と断定した。 そして、千島列島北東端に位置する占守島(しゅむしゅとう)の守備隊に「徹底抗戦」を命じた。一時は終戦の報を聞いて、「故郷に帰ったら何をしようか」などと笑みを見せながら話し合っていた兵士たちが、再び銃を取った。 結果、占守島の守備隊は多くの犠牲者を出しながらも、旧ソ連軍の侵攻を見事に食い止めた。この戦いにおける日本側の死傷者は600~1千人。対する旧ソ連側の死傷者は1500~4千人に及んだ。占守島で旧ソ連軍が足止めされている間に、米軍が北海道に進駐。スターリンの野望はこうしてくじかれた。 この占守島の戦いがなければ、北海道は旧ソ連によって分断統治されていた。日本がドイツや朝鮮半島のような分断国家となる道から救ったのだ。小さな孤島での戦いであったが、日本という国家にとっては極めて大きな意味を持つ戦闘であった。 にもかかわらず、現在の日本においてその存在は北海道民でさえも十分に認知しているとは言い難い状況にある。このような歴史教育で本当によいのだろうか。占守島に打ち捨てられた残骸=2017年7月(第11戦車隊士魂協力会提供) 占守島の戦いを指揮した樋口に対しては戦後、旧ソ連から「戦犯引き渡し要求」がなされた。これをロビー活動によって防いだのは、かつて「ヒグチ・ビザ」によって救われたユダヤ人たちであった。

  • Thumbnail

    記事

    エース最後に集いし航空隊「撃墜王」に今も残る悔恨

    井上和彦(ジャーナリスト) 先の大戦の制空権を米軍に奪われ、もはや敗色濃厚となった昭和19年12月、日本海軍は起死回生の策として、各地で戦う腕利きのエースパイロットをかき集めた精鋭部隊の創設に踏み切った。こうして愛媛県の松山基地に誕生したのが第343航空隊、通称「剣(つるぎ)部隊」だった。 真珠湾攻撃時の航空参謀だった源田実大佐が司令を務め、飛行長には、真珠湾・ミッドウェー海戦を経験してきた歴戦の勇士・志賀淑雄少佐が就いた。そしてその隷下部隊には、ラバウル・フィリピンの激戦で大活躍した鴛淵(おしぶち)孝大尉率いる「維新隊」第701飛行隊、同じくラバウルの勇士・林喜重(よししげ)大尉の「天誅隊」第407飛行隊、さらに、南方戦線のエース・菅野直(かんの・なおし)大尉率いる「新選組」第301飛行隊の3個戦闘飛行隊が置かれた。 加えてパイロット育成の練成飛行隊として浅川正明大尉の「極天隊」第401飛行隊と、偵察を担任する橋本敏男大尉の「奇兵隊」偵察第4飛行隊があった。 さらに、この第343航空隊には、120機撃墜のスーパーエース・杉田庄一上等飛行兵曹をはじめ、「空の宮本武蔵」こと武藤金義少尉、ラバウル航空隊で大活躍した宮崎勇飛行兵曹長、松場秋夫少尉、坂井三郎少尉、本田稔飛曹長など日本海軍が誇る撃墜王が集められたのだった。 そしてこの部隊の主力機は、当時最新鋭にして最強の戦闘機「紫電改」(紫電21型)だった。 「紫電改」は、20ミリ機関砲4門、零戦のおよそ2倍となる2千馬力エンジンを搭載し、パイロットを守る防弾板や、高い運動性を生み出す自動空戦フラップを備えた当時の日本海軍の最強戦闘機だったのである。まさしく「鬼に金棒」だった。旧日本海軍航空参謀で第343航空隊(通称・剣部隊)司令の源田実大佐 昭和20年3月19日、偵察機から「敵大編隊、四国南岸北上中!」の一報を受け取るや、源田司令はただちに各隊に発進を命じた。 「サクラ、サクラ、ニイタカヤマノボレ」。開戦劈頭(へきとう)の真珠湾攻撃時に用いられた「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文が再び使われたのである。迎撃に上がった「剣部隊」は、上空約5千メートルで態勢を整えて敵機を待ち構えた。 敵編隊は、約1千メートル下方に位置しており絶対優位のポジションだった。そして54機の「紫電改」が敵大編隊に襲いかかったのである。敵をめった打ちにした紫電改 かくして激しい空中戦が本土上空で繰り広げられ、その結果、「剣部隊」は実に57機もの敵機を撃墜するという驚くべき大戦果を収めたのであった。わが方の損害は13機だった。 この戦闘で、「剣部隊」と激突した空母「ベニントン」の艦載機のパイロットであるモブリー少佐は、その戦闘報告書で次のように記している。 彼らの射撃と操縦技倆は、我が飛行隊のパイロットがこれまで見た最高の技倆と同程度に優れていた。対戦したパイロットは、明らかに日本軍航空部隊の精鋭であった。ヘンリー境田・高木晃治『源田の剣』双葉社 また、空母「ホーネット」の第2小隊長ワイス大尉はこう回想している。 日本機の編隊に突っ込まれ一撃をかけられると、味方のおよそ半数が撃墜されるか、戦闘不能になっていた。我が機の胴体落下タンクは燃えており、胴体と翼には穴が幾つかあいていた。ぼくはタンクを捨て、火を消すために急降下した。『源田の剣』 敵戦闘機隊は「紫電改」にめった打ちにされたのである。 昭和20年3月時点でのこの大戦果は、相次ぐ玉砕と本土空襲などで意気消沈していた大本営を歓喜させた。そして、この武勲は直ちに上聞に達し、「剣部隊」に対して連合艦隊司令長官・豊田副武(そえむ)大将から感状が授与されたのである。局地戦闘機「紫電改」 こうして「剣部隊」はその後も来襲する米軍戦闘機相手に勇戦敢闘した。すると、その精強さは海軍内でも注目され、鹿屋基地(鹿児島県)に前進して特攻機の護衛任務も任された。加えて対戦闘機戦闘だけでなく、大型のB29爆撃機に対する迎撃戦闘も行ったのである。 航空隊は、敵機を効果的に迎え撃つため、第一国分基地から長崎県の大村基地に移動して戦い続けた。 そして「剣部隊」は、B29爆撃機に対する迎撃戦でも大戦果を挙げている。5月11日には北九州上空で9機のB29を撃墜したのだった。5カ月で驚異の戦果 これは終戦まで3カ月の出来事である。そして、終戦までおよそ2カ月となった昭和20年6月2日にも驚くべき大戦果を挙げている。 敵は、空母「シャングリラ」の戦闘機F4Uコルセア隊で、九州南部の知覧・出水の特攻基地を攻撃に来たときの空戦だった。このとき「剣部隊」は、あっという間に敵機18機を撃墜し、わが方の損害は2機という圧勝だったのである。 総撃墜数43機を数える元407飛行隊のエース本田稔少尉は、このときの様子をこう記している。 各小隊は格好の目標を定め、高度千、五百、百と近づき、いっせいに二十ミリ機銃を発射して完全な奇襲をかけ、F4Uを片っ端から撃墜してしまった。この時三〇一飛行隊は上空警戒に当たっており、我々の攻撃を見ていたが、その前方にさらにF4U八機がゆうゆうと飛行しているのを発見してこれを奇襲し、その五機を墜としたのである。この日、わが方は二機の未帰還機があったが、十八機にのぼる敵艦載機を撃墜した。岡野充俊『本田稔空戦記』潮書房光人新社 6月2日の空戦は「剣部隊」の大勝利だった。 では、米軍はどのように見ていたのだろうか。米海軍第38機動部隊指揮官ジョン・S・マッケーン中将から各空母航空隊司令宛てに機密の電信通達が発信された。 全搭乗員に徹底せよ。最近九州南部上空において、経験を積み熟練した敵戦闘機隊に遭遇した。ジョージ、零戦、疾風、雷電あるいはトニー(飛燕または五式戦)とも識別される最新型の高性能機を装備し、とくに対空母機戦闘の訓練を積み、疑いなくレーダー官制下の迎撃態勢にある。この型の飛行機は、場合によりコルセアに匹敵する高速の上昇力を持つと認められる。この戦闘機隊は、緊密な二機および四機編隊、果敢な攻撃性、連携のとれた攻撃性を特徴とする。この練度の高いアクロバットチームと交戦した我が軍パイロット、殊に特攻機あるいは爆撃機を相手に容易な撃墜に慣れ、自信過剰となり警戒心をおろそかにした搭乗員はショックを受けている。『源田の剣』93式中間練習機の前で記念撮影する海軍の練習生たち。後列中央が第343海軍航空隊(通称・剣部隊)の一員だった本田稔元少尉 こうして昭和20年3月19日の初陣から終戦までに343航空隊「剣部隊」が挙げた撃墜戦果は、B29爆撃機を含む170機にも上ったのである。 かつて本田稔氏に、最も印象に残る戦いについて聞いてみたところ、本田氏は目を瞑りながらこう言うのだった。 「…あれだけは忘れられんのです。攻撃を終えて帰っていく敵機を後ろから撃って撃墜してしまったんですよ…」「撃墜王」空戦の極意 本田氏は続けた。 「敵機のパイロットは、全く私に気づいていませんでした。そんな無防備な敵機を、背後から撃つことになったんですよ。敵機に近づきながら『早く気づかんか!』と念じたのですが、最後までそのパイロットは気づかなかった。でも私は機銃を浴びせて撃墜してしまったんです。可哀想なことをしました。今もあのときのことだけは悔やまれてならんのです。なんで撃ってしまったんだと…」 本田氏は、剣道の試合のごとく敵機と一騎打ちしたかったのである。そこで私が、空戦の極意を尋ねると、本田氏は間髪入れずに答えた。 「『侍』ですね。つまり『武士道』―」 この言葉を聞いて、思わず背筋が伸びたことを思い出す。 「剣部隊」は、編成から終戦までの半年で実に170機もの米軍機を撃墜し、多数を撃破して米軍パイロット達の心胆を寒からしめた。 だが、この大戦果の裏で、搭乗員88人を含む161人の戦死があることも忘れてはならない。その英霊161柱が祀られる靖国神社について、元301飛行隊のエース・笠井智一氏(総撃墜数10機)はこう語ってくれた。第343航空隊(通称・剣部隊)に所属した元海軍少尉、本田稔氏=2015年7月(奈須稔撮影) 「靖国神社参拝をめぐる問題で、いつも政治家やマスコミが大騒ぎしておりますが、こういう人たちは全く分かっていないですね。靖国神社というところは絶対になくてはならない追悼の場所なんです。宗教がどうだとか、そういうことは問題じゃないんです。 われわれが『今度会う日は、靖国の桜のこずえで咲いて会おう』と歌ったのは、伊達や酔狂じゃないんです。われわれは、そう思って国のために戦ったんです。われわれ兵隊が国の指導者に騙された、なんていう人もいますが、それは全く違います。国のために、この祖国を守るために一生懸命に戦って亡くなった人々は、永遠に靖国神社に祀られねばならないと私は思っています。 零戦の会の慰霊祭にしても、亡くなった人と話ができるわけではありませんが、やはり靖国神社に行って頭を下げれば、何か言い知れぬ感慨が沸いてくるんです」 そして、今年もまた75回目の終戦の日がやってきた。

  • Thumbnail

    記事

    「不死身の分隊長」こと船坂弘軍曹 激戦の敵と“戦友”に

    を辿る(記事中の肩書きは最終階級)。 戦後ではなく、戦中から友情を育んでいた日米の軍人もいた。太平洋戦争最大の激戦地の一つといわれ、約1200人のうちわずか50人ほどしか生還しなかったパラオ諸島・アンガウル島がその舞台である。 米軍の猛攻撃で瀕死の重傷を負った“不死身の分隊長”こと舩坂弘軍曹は左手に拳銃、右手に手榴弾、さらに全身に5発の手榴弾をくくり付けて、米軍司令部に突撃したが、左頸部を撃ち抜かれて昏倒。米軍に“救出”されるも、意識は丸二日戻らなかった。にもかかわらず、意識を取り戻した後には監視兵の襲撃や、飛行場の爆破を試みたのであった。 この舩坂軍曹の執念を、デービッド・オズボーン元米国大使館・代理大使は「勇敢な活躍」と称賛し、米軍将校としてアンガウル島で戦ったロバート・E・テイラー(マサチューセッツ大学教授)は舩坂軍曹に宛てた手紙で「日本人全体のプライドとして残ること」と評した。そして当時、捕虜の舩坂軍曹を監視し、幾度も脱出を試みる彼を取り押さえながらも決して銃殺はせず、「命を粗末にしてはいけません」と諭したのが、米軍通訳兵のフォレスト・バーノン・クレンショーだった。「不死身の分隊長」こと舩坂弘軍曹とクレンショー氏(舩坂良雄氏提供) 戦後、復員した舩坂軍曹はクレンショーを探し回り、全米各地へ手紙を送った。その手紙が110通目に達したとき、ようやく所在がつかめたのである。舩坂軍曹の長男・舩坂良雄氏はこう語る。 「父とクレンショーさんが再会を果たしたのは、戦後20年が過ぎた1966年でした。2人の友情は亡くなるまで続き、私自身も米国滞在の際には、クレンショーさんの自宅で数か月間、生活を共にしました」関連記事■元日本軍の撃墜王「はみ出た腸を手で押し込んで操縦した」■【動画】韓国軍の蛮行伝えるライダイハン像、英国で公開■9回出撃で9回生きて帰った特攻兵「生還の秘密」■徴用工の“証拠写真” 韓国は間違い発覚しても訂正しない■中国で恩赦計画、しかし「抗日戦争参戦」など要件厳しすぎ

  • Thumbnail

    記事

    米本土を唯一空襲した日本兵がレーガン大統領から讃辞受けた訳

    れ、初めて米国の地を踏んだ。 〈米国は開国以来、未だかつて外敵の侵入を許したことがありません。太平洋戦争において貴殿は、この歴史的な記録を破って単機でよく、米軍の厳重なレーダー網をかいくぐり、米本土に侵入し、爆弾を投下致しました。貴殿のこの勇気ある行動は敵ながら実に天晴れであると思います〉今も米国民から尊敬される藤田信雄中尉 藤田中尉の評伝『アメリカ本土を爆撃した男』(倉田耕一・著、毎日ワンズ刊)に掲載されたブルッキングス市・青年会議所からの手紙の一節である。 また、後にレーガン大統領から讃辞を受けたのは、その戦果のためだけではなかった。アゼリア祭りでの歓迎に応えるため、藤田は電線会社の工場で働きながらコツコツと貯金し、ブルッキングス市の高校生たちを日本へ招待したのだ。レーガン大統領の讃辞は、藤田の高潔な人柄と誠実さを称えるものであった。関連記事■元日本軍の撃墜王「はみ出た腸を手で押し込んで操縦した」■B29に2度体当たりして生還、日本人軍曹への米兵から手紙■韓国で慰安婦扱う反日映画続々、日本人の未来志向裏切る内容■韓国・中国・北朝鮮以外は「世界中ほぼ親日国家」である理由■9回出撃で9回生きて帰った特攻兵「生還の秘密」

  • Thumbnail

    記事

    イージス・アショア白紙撤回は好機、日本はミサイル防衛を再考せよ

    森本敏(拓殖大学総長、元防衛大臣) 6月15日、河野太郎防衛大臣は、防衛省が進めていた地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」の配備計画の停止を、突如として表明した。本稿では、防衛戦略全体を論じることは別の機会に譲り、防衛戦略の中で極めて重要な位置を占める「ミサイル防衛」と、その手段としての「イージス・アショアについて所論」の一端を展開したい。 なお、今夏以降に国家安全保障会議(NSC)を中心に安全保障戦略の議論が行われるとのことで、これは大いに期待される。その際、国家安全保障戦略の見直しを行うとともに、防衛計画の大綱(防衛大綱)をやめ、国家安全保障戦略に基づき国家防衛戦略と国家宇宙防衛戦略を策定すべきである。 そもそも防衛大綱とは、日本における安全保障政策の基本的指針とするものであり、およそ10年後までを想定している。一方で中期防衛力整備計画(中期防)は、5年ごとに具体的な防衛政策や装備調達量を定めている。 しかし現在の防衛大綱は、中期防の予算を獲得するための根拠を示す位置づけがなされてしまっている。そのため、中期防において装備の変更・修正が必要になると、その根拠となる防衛大綱を修正する必要が生じる。これでは発想と手順が逆になってしまう。そのため防衛大綱をやめて、中期防を3年くらいで見直しするのがよいのではないだろうか。 近年の戦闘の様相や速度は戦略環境と技術革新によって急速な変貌を遂げている。ゆえに防衛戦略を策定するにあたっては「防護目標および対象」と「脅威見積もり」を評価して、防衛方針と戦闘要領を的確に示す必要がある。 国家の防護目標と対象は、国土や国民とその財産という点で変化要因が大きくない。しかし今日の戦闘様相はグレーゾーン状態で始まり、軍隊同士の正規戦だけでなく、工作員などによる非正規戦や情報戦、サイバー領域まで含むハイブリッド戦闘という特色を有する。そのため、脅威見積もりは戦略環境や国際政治、国際経済上の状況によって大きく変化する。 日本の防衛にとって、最大脅威は北朝鮮とされている。したがって、当面の対処要領の策定として北朝鮮を優先することは問題ないが、防衛戦略上、真の脅威対象は中国であり、ロシアがこれに次ぐ。米国にとっての脅威対象は中国、ロシアという戦略的競争国や国際テロ組織であり、北朝鮮はイランと並んで二の次である。日米で脅威認識が異なる部分は、共同運用性を追求する際、調整が必要だ。 脅威と戦闘の様相が戦略環境と技術革新に伴って変貌していることは既に指摘したが、とりわけ最近の技術革新のうち、人工知能(AI)や量子力学、機械の自律化や無人化を駆使したデジタル通信電子技術、戦域のクロスドメイン(領域横断)の発達は戦闘様相を一変させている。特にデジタル技術と宇宙・サイバー分野の開発には、厳に留意する必要ある。 というのも、技術革新の課題に最も多く直面する分野がミサイルと、それに対する防衛システムであるからだ。兵器としてのミサイルは先の大戦以降、急速に発展してきた。 今日でもミサイルが重要な役割を占め、戦闘の帰趨(きすう)を担うとされるのはなぜか。それはミサイルが費用対効果的に高く、運用上の人的損害がない上に、速度と精度、破壊力と到達距離を脅威対象と自国の技術開発に応じて柔軟に選択可能であるためだ。特にミサイルは核兵器や生物兵器など大量破壊兵器の運搬手段になり得るだけでなく、相手にとって迎撃が難しいという特色を有する。2019年10月3日付の北朝鮮の労働新聞が掲載した「北極星3」の発射実験の連続写真(コリアメディア提供・共同) ミサイルの攻撃力は、弾頭威力や射程、精度、誘導システム、対電子戦能力を含む抗堪(こうたん)性の総合力によって決まる。他方、ミサイル攻撃への対処力としては「懲罰的抑止」と「拒否的抑止」への対応能力により判断される。 懲罰的抑止力は主として報復攻撃力で構成されるが、重要な要素として次のものがある。・破壊対象への命中精度および破壊力の高い第二撃の攻撃力・目標に関する情報収集能力・先制攻撃による高度な生き残り性と抗堪性多様なミサイルによる脅威 ミサイル攻撃に対する拒否的抑止力としては、ミサイル防衛力が中心となる。攻撃用のミサイルには、飛翔するプラットホームごとに地上、海洋(海上・水中)、空中、宇宙などの発射型がある。また、ミサイルの誘導方式や飛翔様式も多様にわたる。これには弾道・巡航ミサイルがあり、最近では、マッハ5以上の速度があり、実態的にはミサイルの極超音速滑空弾がある。各ミサイルには顕著な特性があり、それに応じたミサイル防衛の対処要領が開発されているが、技術開発の速度もとどまるところを知らない。 特にミサイル防衛には、システムやセンサーの精度と能力、早期警戒機能が重要だ。これらは冷戦期での地上発射型弾道ミサイル防衛(BMD)において、各国で最も早く開発・配備されてきた。有名な例では、米国のロナルド・レーガン政権下で提唱された戦略防衛構想(SDI)、通称「スターウォーズ計画」の派生技術として、BMDが急速に発展し、今日に至っている。 しかし、最近では対象となるミサイルの軌道が、射程を最も伸ばせる通常の弾道軌道ではなく、通常よりも低い高度を高速で飛行させるディプレスト軌道のミサイルや、極超音速滑空兵器、スウォーム(群体)行動する無人攻撃機(UAV)などの開発が進んでいる。 地上発射型ミサイルでは、自走式のミサイル発射車両である輸送起立発射機(TEL)が発達する一方で、多数の軍事用ドローンによるミサイルの飽和攻撃や、各種の潜水艦発射型ミサイル(SLBM)も開発されてきた。例えば、北朝鮮は2019年5月以降に30発近くの短距離ミサイルを日本海の方向に向けて発射してきた。 射程約400キロの短距離ミサイルとはいえ、その中にはディプレスト型である米国の戦術地対地ミサイル(ATACMS)と類似する型や、低空高速で飛翔する短距離ミサイル、SLBM型もあり、従来のBMDでは対応困難なミサイルシステムが出現している。 日本にとって深刻なミサイル脅威としては、北朝鮮、中国、ロシア3カ国の各種ミサイルである。【北朝鮮】・開発、配備された各種の地上発射型弾道ミサイル・ディプレスト軌道のミサイル、巡航ミサイル、SLBM【中国】・射程1千~3千キロ程度の地上発射型準中距離弾道ミサイル(MRBM)・射程3千~5千キロ程度の中距離弾道ミサイル(IRBM)、なお大陸内部や北西部に配備された約2千発のうち、9割が核弾頭の搭載が可能・巡航ミサイル、極超音速ミサイル、UAVなど【ロシア】・極東配備している射程1千キロ程度の短距離弾道ミサイル(SRBM)・IRBMや、航空機搭載型の巡航ミサイルなど これらは既に配備済みのものと、今後開発・配備されるものが存在する。いずれにしても、従来のBMDシステムで全ての脅威に対応することは困難になりつつある。 今まで日本が進めてきたBMDは、弾道の中間段階と、終末段階において撃破することを目標にしている。その装備として、弾道弾迎撃ミサイルSM3を搭載したイージス艦とイージス・アショア(イージス・システム)、そして地対空誘導弾パトリオット(PAC3)の三つからなる多層防衛システム体制を整備してきた。海上自衛隊のイージス護衛艦「まや」=2020年3月19日、横浜市磯子区(産経新聞ヘリから、宮崎瑞穂撮影) このうちイージス艦の負担が大きくなっただけでなく、南西諸島における中国の脅威が高まっていることもあり、イージス艦をミサイル防衛以外の任務へ柔軟に運用するための必要性が生じた。そのためイージス・システムを地上に配備する必要があるとして、イージス・アショアが採用されたという背景がある。 そして17年12月、イージス・アショアを2基導入して地上に配備する閣議決定が行われ、そのための準備を今日まで進めてきた。この準備の一環として、地上発射型ミサイルの配備地選定とそれに伴う諸準備、特に、搭載レーダーの選定、配備部隊の編成や警備体制などを進めてきた。 これらの諸準備の中で最も留意したのは、配備地選定に伴う地元説得であったが、これが行き詰まったことが大きな障害となった。18年6月に候補地として選定した秋田県では、政府側による説明の手法が地元の反発を買い、もう一つの候補地である山口県では、ミサイルブースター落下について地元を説得するのに苦慮した。政府は山口県に対して「SM3の飛翔経路をコントロールして、ブースターを陸上自衛隊のむつみ演習場ないし海上へ落下させるため心配はない」という説明を行ってきた。ミサイル防衛で考慮すべき問題 だが、今年初めから進められてきた日米協議を通じて、ブースター落下を確実に演習場内に行うためにはイージス・アショアのソフトとハードを大幅に改修する必要性が5月下旬になってようやく判明した。ソフト改修は、ブースターが演習場外に落ちないようにコンピューター制御するためで、時間と経費はそれほどかからない。 ハード改修とは、ミサイル垂直発射装置(VLS)と、そこから発射されるブースター付きSM3本体について、そのブースターが早く切り離されて安全な地域内に落下するように改修することではないかと推定される。ただ、技術的課題はこれから日米間で協議されることになっており、まだ決まっているわけではない。それでもハード面の改修は、ソフト面での改修より多くのコストと時間がかかるであろう。 河野氏は6月初めに担当者から現状について報告を受けた後、安倍晋三総理に説明した上で「システム改修に必要なコストおよび期間に鑑み、イージス・アショアの配備に関するプロセスを停止する」との決定を6月15日に行った。その後、秋田・山口両県知事に謝罪と説明を実施している。この決定プロセスを事前にNSCや自民党、外務省など関係省庁に相談なく行ったことに対して、特に自民党から大きな反発が生じたが、世論調査では河野氏の決断を支持する意見の方が多い。 BMDシステムは、ミサイルの急速な技術進歩の結果、そのシステム自体の在り方や運用要領について再検討が迫られている。したがって、本件はイージス・アショア問題を単に処理すればよいというだけの問題ではなく、ミサイル防衛全体が直面している問題を考える必要がある。その際に考慮すべき諸点について、四つの視点から指摘しておこう。 一つ目が総合ミサイル防空システムの体制整備である。現状の陸海空自衛隊の防衛システムは、それぞれの指揮系統が通信ネットワークを介して自動警戒管制システム(JADGE)と連接し、ミサイル対処・防空・宇宙システム全体を一元化した指揮統制下で運用されている。情報収集衛星「光学7号機」を搭載したH2Aロケット41号機=2020年2月9日鹿児島県の種子島宇宙センター これをより効果的にするためには、JADGEの能力向上や、敵ミサイルや航空機の位置情報をリアルタイムで共有する共同交戦能力(CEC)の採用が必要不可欠だ。それにより航空自衛隊の早期警戒機E2Dを含む、各センサーから高速・高精度の情報が入手できる。結果、イージス艦やPAC3といったシューターの迎撃範囲や攻撃速度を向上することが可能となる。 このシステムは、米国が進めている統合防空・ミサイル防衛(IAMD)と同様のコンセプトを有する。ただ運用するにあたってはシステムだけでなく、各種兵器やCECの改良を進めつつ、日米の緊密な連携も図る必要が生じるであろう。 米国のIAMDは米本土を大陸間弾道ミサイル(ICBM)から防護するシステムとして、高威力超速弾頭(High Power Velocity)の改良、地上配備型迎撃ミサイル(GBI)搭載用の多目的迎撃体、レーザー兵器、宇宙静止軌道上やモルニア軌道上に赤外線センサー衛星を配備する「宇宙配備赤外線システム」(SBIRS)などが開発の対象となっている。このうちどのような分野で日本との共同開発が可能か、検討されることになろう。 当面の課題として、ディプレスト型ミサイルへの対応が挙げられる。これに対応するために、低高度小型衛星をメガコンステレーション(大量の超小型衛星を軌道上に周回させる)システムとして打ち上げ、相手のミサイルの発射段階から捕捉・追跡・迎撃データの送信などを行い、これをシューターによって迎撃するシステム開発が検討されている。 その際、小型衛星とシューターを日米共同開発で行うことが望ましく、メガコンステレーションシステムの開発・運用経費を日米間で折半し、来年度以降の在日米軍への接受国支援(HNS)の予算に編入することも検討の余地があろう。システム再検討のよい機会 考慮すべき二つ目の問題として、懲罰的抑止の手段について挙げたい。北朝鮮や中国のミサイル配備や航空基地を攻撃する能力として、米国が核弾頭搭載可能な中距離射程(INF)の巡航・弾道ミサイル開発に成功し、インド太平洋に配備する計画を示したとする。その場合、日本は他のインド太平洋諸国と同様に、在日米軍の装備として米国のミサイル配備受け入れを容認し、ミサイル戦力の抗堪性を維持するための協力を検討する必要がある。 北朝鮮によるミサイル発射が続いているときに、イージス・システムとPAC3の多層防衛を構成しておくことは極めて重要である。だがイージス・アショアの配備停止を理由に、昨今議題に上がっている敵基地攻撃論を進めることは国民に十分説明する必要がある。米国に日本の領域外への攻勢作戦を期待し、日本は領域内の防勢作戦に専念するのが専守防衛と日米共同運用の趣旨にかなった対応である。まず敵基地攻撃においては米国に任せて、日本はミサイル防衛をより効率的に進めることが先決だ。 しかし在日米軍にINF射程ミサイルを配備するといっても、海兵隊にはINF射程のミサイルと関連システムを受け入れる十分な場所は存在しない。沖縄に持っていくにしても、政治的な難題を抱える。場合によっては硫黄島(いおうとう)のような、住民のない離島に配備候補地を求める必要があるであろう。いずれにせよ、米国の空母部隊やグアム基地といった重要な戦略アセットを守るために、また第二列島線周辺における優位なバランスを確保するためにも、米国のINF射程のミサイル配備は重要だ。 三つ目の考慮すべき問題としては、イージス・アショアの扱いがある。配備計画の停止とはSM3を配備するためのソフト、ハードの改修予算を計上しないということであろう。だがこのまま放置すると、計画の停止ではなく、結局計画の廃棄になる。結果としてイージス艦の負担が深刻化する。 かといってイージス艦を増やすと、予算や時間というコストが一層増え、海上防衛力の柔軟な運用を損なう。イージス・アショアのソフト修正にあまり経費はかからないが、ハード改修には時間も金もかかる。そのためハード改修ではなく、ソフトの修復をしている間に、別の候補地を模索することが必要ではないか。 ミサイル攻撃の目標は、都市や政治経済上の重要防護目標である。それらを防護するには居住地から離れた場所の国有林か、あるいは海上プラットホームがよいという見方をする人もいる。いずれにしても、目的を明確にしていくつかのオプションを評価分析しつつ選択すべきである。イージス・アショアは日本の防衛にとって必要不可欠だ。今まで積み上げた努力を無駄にすべきではない。配備候補地としてきた演習場周辺の住民代表(右)に深く頭を下げる河野太郎防衛相=2020年6月21日、秋田県庁 四つ目の考慮すべき問題としては、相手のミサイルを発射段階で対処する手段を模索することである。ミサイルの発射段階(ブーストフェーズ)は、大きなブースターから出る熱や赤外線、低い速度ゆえ探知が容易な面がある。さらに上昇中のブースターは噴出する熱や赤外線も大きく、目標としては迎撃しやすい。他方で上昇するミサイルは発射国の領域・領空内であり、ミサイル目標を算定するまで時間がかかる。 すると国際法的にも技術的にも、この段階で物理的にミサイルや航空機で迎撃破壊するには難点がある。これを補う方法は、ミサイルと管制施設の通信機能をサイバー攻撃で破壊するというやり方や、無人機にレーザー砲を搭載する「エアボーン・レーザー」により上昇段階にあるミサイルを破壊するというやり方がある。いずれも相手国内に電子通信機器の機能を及ぼすなどの必要がある。相手からの反撃の可能性もあるが、将来性のある日米共同開発案件として検討の余地はある。 以上のように、イージス・アショアは日本のミサイル防衛にとって重要な機能を発揮する役割を有している。けれども、この際にミサイル防衛の在り方を展望して、イージス・アショアの扱いを含め全体のミサイルシステムを再評価し、その中でイージス・アショアの在り方を冷静に検討し直すよい機会が訪れていると考えるべきであろう。

  • Thumbnail

    記事

    昭和天皇はなぜ開戦に同意せざるを得なかったのか

    打電している。 また、ヴェルダン戦跡では、焼けただれた森や、谷を埋め尽くす真新しい墓標などを見て、「戦争というものは実に悲惨なものだ」との感想を述べた。昭和天皇は第一次世界大戦の戦跡の生々しさを自らの肌で感じたのであった。 こうした体験のある昭和天皇は、協調外交を重視し、世界平和を願った。しかし、即位当初から、天皇の平和への理想をつき崩す事態が続く。 中国大陸では、蒋介石軍による中国統一の動きが活発となり、大陸に既得権を持ち、多くの居留民を抱える日本は、大陸の軍事情勢に敏感になった。即位直後の昭和3(1928)年の第二次山東出兵にあたり、天皇は大元帥としてその成り行きを注視し、蒋介石率いる国民革命軍の北伐の進展や、それによる山東軍の退却、北方軍閥の衰勢などを鈴木壮六参謀総長から聞いた。 そして、閣議で山東方面の在留邦人の生命財産保護のための臨時済南派遣隊を急ぎ出兵させることを決定したと、田中義一首相と鈴木参謀総長から伝えられた。 当時、天皇は外交問題を武力で解決する道を望まず、軍部の一部からは「平和主義者」とみなされていた。そんな天皇でも、居留民保護のための軍隊派遣という閣議決定に反対することはできなかった。1930年10月26日、神戸沖での海軍特別大演習で、お召し艦上から観艦式を見る昭和天皇 そもそも、自国民が戦渦に巻き込まれる事態を、国家元首で、大元帥である天皇が黙視することはできない。しかも天皇といえども、既に閣議で決定された事項を覆すのは難しかった。 即位直後は、経済的混迷も深まっていた。日本の貧しい農村では娘の身売りが広がり、都市でも失業者が増えた。第一次世界大戦後の不況による昭和2年の金融恐慌、ニューヨークでの株の暴落に始まる昭和3年の世界恐慌などが背景にある。孤立する立場と心情 このとき、政党政治家たちは党利党略に走り、多くの国民の怨嗟(えんさ)の的となった。そうした中で国家を憂える存在としてクローズアップされ、期待されたのが軍部であった。 中国大陸での軍事進出は、慢性化した不況に対する有効な打開策と考える人々も増えた。軍部は新時代を担う勢力として、その存在感を示すようになった。このため、協調外交は「軟弱外交」と見下され、対外強硬政策が幅を利かすようになった。 若槻礼次郎、浜口雄幸、幣原喜重郎らは、いずれも協調外交を重視した政治家で首相や外相の経験者であった。天皇は若槻たちの協調外交の推進を心中では望んでおり、彼らへの信頼は篤(あつ)かった。 しかし、そのことがかえって対外強硬派の反発を買い、若槻や幣原は「軟弱外交」と攻撃され、浜口は海軍軍縮を推進したとの理由から東京駅で狙撃された。 さらに軍部内では、派閥抗争が過激化し、武力による主導権争いと政治への介入が進み、クーデター計画や政府要人へのテロが続いた。昭和6年の「三月事件」、昭和7年の「五・一五事件」などである。 そして、昭和11年には首都を占拠した「二・二六事件」が起きた。このとき、鈴木貫太郎侍従長はじめ天皇が信頼する側近たちが「君側の奸(かん)」として襲撃され、斎藤実(まこと)内大臣や高橋是清大蔵大臣らは殺された。 協調外交派の側近が排斥されたことで、以後の天皇の協調外交的な立場と心情は孤立していった。側近や閣僚らの決定事項を重視し、自らの独裁的判断を好まない天皇は、側近や閣僚が対外強硬路線に傾くにつれて、自らが好まなかった対外強硬路線の道を追認せざるを得なくなってしまったのである。 おりしも昭和14年、欧州ではドイツのポーランド侵攻に始まる第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した。中国戦線での膠着(こうちゃく)状態を解決できない日本は、独伊との提携により、新たな打開の道を求め始めた。1935年11月16日、陸軍特別大演習後の地方巡視で、鹿児島県の霧島神宮を参拝した昭和天皇(左)と随行した鈴木貫太郎侍従長(中)、本庄繁侍従武官長。約100日後、3人は二・二六事件に巻き込まれる。新聞聯合の内山林之助が撮影した 昭和6年の満州事変以来拡大してきた中国での既得権を放棄することや、中国各地に遍在する居留民たちを帰還させる英断は難しく、昭和16年、かつて平和を願っていた天皇も、ついに世界戦争に突入する決断をせざるを得なくなった。この決定も、天皇の独断というより、閣議や御前会議などの決定に従ったものであり、天皇として悔いの残る決断であった。 124代続いた天皇家と日本国の崩壊は、天皇にとって最も避けるべき道であったが、その賭けに出ざるを得ない状況に至ってしまったのである。昭和天皇の「遺産」 昭和16年の対米英開戦後も、天皇は国家の崩壊を避けるべく、大元帥として国家元首として、軍部や政治家に自らの考えを主張し続けたが、多くは戦争の専門家としての軍部の意見に言い包められてしまった。周囲の意見を尊重する「立憲君主」の立場を採り、独裁権を握らなかったことが、こうした事態の背景にあったと、天皇自身も回想している。 昭和20年8月、日本国家壊滅の絶体絶命の段階になって、ついに天皇は徹底抗戦ではなく、和平の道を選ぶことを粘り強く推し進めた。これによって日本国家の壊滅は免れたのであった。 とはいえ、それまでの戦いは、天皇の名の下になされており、国際的にも国内的にも天皇の戦争責任を問う声は多かった。天皇自身、自らが責任を負うことで、長い伝統と歴史のある天皇家と日本国家が存続するのであれば、それも受け入れる覚悟はあった。 しかし、敗戦後の状況の中で、日本再建の現実的な原動力となるのは、天皇による国民の統合と国家復興の道であることを、連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官のダグラス・マッカーサーはじめ、占領軍の中枢部も理解するようになり、天皇を中心とした日本再建のレールが敷かれていった。 それでも、世界を戦乱に巻き込んだ日本国家の責任は不問にできず、以後の世界平和のため、日本の戦争放棄と民主主義社会の実現を世界に誓うことを条件として、天皇と天皇を象徴とする国家の再建が容認されたのであった。そのため憲法も大きく変わり、天皇も、現人神(あらひとがみ)から象徴天皇となり、大元帥でも国家元首でもなくなった。 日本国憲法にある戦争放棄と象徴天皇制は、昭和天皇にとって日本が戦後の国際社会と交わした重要な約束であり、好むと好まざるとにかかわらず、その改正や廃棄は、国際的な信義に反するものであった。昭和天皇は世界を戦場とし、日本国家を滅亡寸前まで導いた自らの道義的責任を、立場上公言することはできなかったが、深く自覚していた。その自覚が、戦後の世界平和と国内の民主化実現への懸命の努力となって現れた。 そして、戦後の日本は見事に経済成長を遂げ、国際社会に復帰したのだった。平成の天皇も、こうした昭和天皇の胸中を知るゆえに、平和と民主主義を重視して、象徴天皇としての道を歩み、さらに令和の天皇にもそうした流れを踏襲してほしいと願った。1945年9月27日、連合国軍総司令部のマッカーサー元帥と会見する昭和天皇=東京・赤坂の米国大使館 戦後、半世紀をはるかに過ぎ、かつての戦争を知らない世代も増えた。しかし、皇室は、その信義上、天皇家と日本国家の壊滅を救うために世界と結んだ約束を反故(ほご)にすることはできない。もし反故にすれば、天皇家は身の保全のために、一時的な口約束として戦争放棄と民主社会実現を述べたのだと、その不誠実さを世界に示すことになるからである。 少なくとも、昭和天皇とその直系にある皇統のものが皇室を支えている間は、皇室は戦争放棄と民主主義社会の実現を求め続けるだろう。昭和天皇が世界平和を願いながらも太平洋戦争を引き起こしてしまったことで得た大きな教訓であり、後世に残した大きな遺産だからである。 今後、再び天皇の名の下で戦争が起きてしまうことがあれば、平和を願う天皇をそこまで追い込んでしまったわれわれ国民と、国民が支持する政治家たちの姿勢に大きな責任があることになろう。■ 67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった■ 実は「天皇の靖国参拝」に道を開くカギがあった■ 御聖断のインテリジェンス

  • Thumbnail

    テーマ

    天皇と大東亜戦争

    御代替わりとともに皇位継承問題が深刻化し、天皇や皇室のあり方が問われている。そして迎えた終戦記念日は74回目。記憶が薄れゆく先の大戦だが、やはり切り離すことができないのは天皇との関りではないだろうか。令和最初の終戦記念日を機に、改めて考えたい。

  • Thumbnail

    記事

    だれが天皇の靖国参拝を阻止しているのか

    。三つの理由をあげる。 第一は、靖国神社とは何かを分かっていないことである。そもそも靖国神社は、戊辰戦争の官軍の戦没者を祀るために創建された。それがやがて、日本国の戦いに尽くしてお亡くなりになられた方を祀る神社となった。言うまでもなく、靖国は大東亜戦争の戦没者だけを祀る神社ではない。たとえ、靖国に祀られている英霊の大半が、大東亜戦争の戦没者であっても、この本質は変わらない。 よって、8月15日に特段の意味はないのだ。なぜ、天皇陛下が8月15日に靖国神社を参拝しなければならないのか? 先例はあるのか? いかなる理由に基づくのか? まさか、「天皇が8月15日に靖国に来ると、自分たちの気持ちがいい」ではあるまい。それこそ、天皇の政治利用だ。靖国神社を参拝された昭和天皇=1975年11月21日  靖国神社は本来、国のために命を捧げた人に静かに感謝する場所である。政治に利用する場所ではない。では、誰が靖国を政治に利用したかを思い出さねばならない。この話は、意外と忘れられているか、そもそも知らない人が多いと思われるので、少し詳細に述べる。 これが、第二の理由となる。話は、三木武夫内閣に遡(さかのぼ)る。 三木武夫はニューライト(今で言うリベラル)を標榜しており、自民党では保守傍流。それどころか、本当に保守政治家かどうかを疑われていたほどだった。その三木が権謀術数の限りを尽くして、前任首相の田中角栄を失脚させ、総理の座を奪い取った(徳島代理戦争~金脈政変~椎名裁定)。昭和49年12月のことである。しかし、総裁選で多数の支持を集めての勝利ではない。政権基盤は不安定だった。 当時の自民党五大派閥領袖は、田中角栄、福田赳夫、大平正芳、三木武夫、中曽根康弘の5人。このうち、明確な主流派は、当時自民党幹事長だった中曽根のみ。田中と大平は政権発足当初から、隙あらば倒閣を仕掛けかねない反主流派と目されていた。よって、どうしても福田の支持を必要としていた。 ここで三木が利用した政策が二つある。一つは金権政治批判である。前任の田中が不透明すぎる錬金術を世間に批判されて退陣に追い込まれただけに、三木はことさら「クリーン」を利用した。田中は総理総裁の椅子を奪い取るのに大掛かりな買収を仕掛けたが、これに敗れた福田は怨念を抱いている。そもそも、三木と福田は田中内閣の閣僚でありながら、その金権体質を批判して大臣の辞表を叩きつけた仲だ。 そしてもう一つが、靖国参拝である。 福田の周りには、タカ派政治家が集まっていた。特に、若手議員が超派閥的に、「青嵐会」を結成し、党内を席巻していた。中心議員は、中川一郎、渡辺美智雄、石原慎太郎ら。青嵐会は「福田派別動隊」「福田親衛隊」と化していた。三木「私的参拝」の意味 三木は、青嵐会の中心人物である彼らを懐柔する。あまりの接近ぶりに、ニューライトで三木の信奉者だった河野洋平などは、失望して自民党を脱党したほどだった(新自由クラブ)。三木はマスコミ受けを狙いニューライトを標榜していたが、特に堅固な思想があるわけではない。政権維持のためなら、青嵐会と手を組んだ。そして、彼らが要求する「8月15日の靖国参拝」をのんだ。 8月15日が特別な意味を持つのは、ここからである。三木はバルカン政治家と言われた策士である。青嵐会の若手如きの言いなりになる政治家ではない。三木は「私的参拝」であると、必要以上にマスコミの前でアピールした。公用車を使わず、タクシーの支払いもわざわざ胸の内ポケットから自分で財布を出すところまでカメラに撮らせた。 8月15日が特別な意味を持つようになったのは、考えなし保守が、権力亡者の自民党政治家に利用された、政治の産物に過ぎないのだ。 これに輪をかけたのが、中曽根だ。 昭和60年、中曽根は首相として初めて、8月15日に靖国神社を公式参拝する。ところが、翌年は諸外国の圧力に屈して取りやめてしまった。ここに、「参拝が、公式か私的か」「8月15日に行くかどうか」「そもそも参拝するかどうか」が、内政のみならず、国際問題と化す。 唯一、毎年参拝した首相が小泉純一郎で、退陣が決まっていた政権最後の年に、ようやく公約通りに8月15日に参拝した。そして安倍晋三首相は二度の政権において、第二次内閣の平成25年12月26日に参拝したのが唯一だ。 第二次安倍内閣は、靖国神社で最も大切な行事である、春秋の例大祭に参拝することで決着を付けようとしていた。ところが、力が足りず今に至る。 6年も政権を独占している首相が参拝できないのに、天皇陛下に、よりによって8月15日に参拝せよなど、何がしたいのか? その後の責任を、誰も取れないではないか?一般参賀に訪れた人たちに手を振られる天皇陛下と皇后さま=2019年5月4日、皇居・宮殿(川口良介撮影) 私は、日ごろは宮内庁の態度に批判的だと自負しているが、報道で言われているように、天皇陛下に8月15日に参拝してほしいとの依頼を断ったとしたら、当然だと考える。私でも断る。 さて、根本的な問題である。なぜ、天皇陛下は靖国神社に参拝できないのか。今この状況で「8月15日に参拝せよ」などと迫ることが、この本質から目を背けさせる。 これが愚論である、第三の理由だ。 もちろん、政治問題化し、総理大臣が参拝できないようなこじれた状況になったから、ということなのだが、より直接的に阻止している勢力の存在が、どれほど知られているだろうか。 はっきり言うが、内閣法制局が阻止しているのである。「A級戦犯合祀」が理由ではない 三木は、初閣議で全省庁を敵に回した。役所に何の根回しもせず、滔々(とうとう)と閣僚を相手に所信を演説した。完全に宣戦布告である。官房副長官だった海部俊樹の下には、慌てた官僚たちから苦情と悲鳴と問い合わせが殺到したとか。三木は、その2年の政権で、官僚機構を敵視し、実際に振り回し続けた。ただし、例外が二つある。 一つが検察庁。三木内閣を語る上で、ロッキード事件での田中角栄逮捕と、その際の検察との蜜月は欠かせない。こちらはよく知られている。もう一つが、内閣法制局である。三木内閣の史料を渉猟していると、政局の節目や重要政策の決定において、内閣法制局が登場する。三木の「私的」参拝は、法制局の見解なのである。 法制局は中曽根内閣の「公式」参拝にも、日本国憲法第二十条の政教分離を理由に多くの注文を付けた。結果、靖国神社に多くの失礼を働く結果となった。そして、小泉内閣は「私的」参拝で通した。法制局見解が「私的参拝ならば、政教分離の原則と抵触しない」との見解だからだ。 話を昭和50年の三木首相靖国神社参拝に戻す。これが社会党から国会で問題にされた。これに対する、当時の法制局長官、吉國一郎は、「天皇の行動があらゆる行動を通じて国政に影響を及ぼすことがあってはならない」と言い切った(昭和50年11月20日参議院内閣委員会)の答弁である。 いわゆる「天皇ロボット説」を政府見解にした答弁である。それは別の話として、本論との関係で言えば、この答弁以後は天皇の靖国神社参拝は一度として行われていない。三木武夫元首相(三木事務所にて)=1984年6月 東條英機ら、いわゆる「A級戦犯」を合祀したので昭和天皇が参拝を忌避したなどと、何の立証もされていない議論が繰り広げているのに比して、吉國の答弁が取り上げられることはほとんどない。 以上、今の状況で、「天皇陛下に8月15日に靖国神社に参拝していただきたい」などとお願いするのが、いかに愚論であるかを説明した。本来は正論であっても。 ただし、断っておく。「今の状況で」という条件があることを。 再び繰り返す。時宜にかなっていない正論は、単なる愚論よりも質が悪い。ならば、正論が通らない「状況」を動かす方策を考える。その前に原因を考える。 自分だけが気持ちよくなる、保守商売とは決別しよう。(文中敬称略) 追記:本論で述べた事実関係の詳細は、以下の小著を参照されたし。『政争家・三木武夫 田中角栄を殺した男』(講談社、2016年)『検証 検察庁の近現代史』(光文社、2018年)『東大法学部という洗脳 昭和20年8月15日の宮澤俊義』(ビジネス社、2019年)■元幹部告白手記「靖国神社150年目の危機」■「ミス」から始まった真珠湾攻撃 九七艦攻隊員が語った奇襲の真相■理不尽すぎる南雲忠一「愚将論」を徹底論破する

  • Thumbnail

    記事

    「天皇なき日本」の統治を恐れたマッカーサーの極秘電報

    のは、もちろん偶然ではない。 問:「天皇陛下をどうか」 答:「自分の口からは何ともいえない」 問:「戦争犯罪人の追及はいつまでさかのぼるのか」 答:「1937(昭和12)年7月である(筆者注・近衛文麿が首相のとき起こった盧溝橋事件にまでさかのぼる)」 問:「真珠湾攻撃の責任は」 答:「真珠湾攻撃の責任は爆弾を投下したその人ではなく攻撃計画を立案、実施した人である、自分は日本の侵略戦争、宣戦布告なき戦争を挑発したその罪科を指摘したいと思う」(『朝日新聞』1945年12月8日) 東京裁判の首席検察官キーナンは、「卑怯者」を死刑にするために来たのだ。ところが、キーナンの態度を急変される事態が起きた。「憎悪は未来永劫に続く」 ダグラス・マッカーサー元帥(1880〜1964)は、日本に上陸してわずか5カ月後、日本国民の日常生活の中で、その精神文化の中で、天皇がいかに重要な存在であるかを完全に把握した。天皇を死刑にすれば、日本は崩壊し、マッカーサーの統治は不可能となる。天皇は生かしておかなければならなかった。 天皇の権威を理解したマッカーサーは、米国の対日占領には天皇の温存、利用が必要だと判断。1946(昭和21)年1月25日、マッカーサーは、陸軍省宛てに3ページにびっしりと文が詰まっている極秘電報を打った。この電報が天皇の命を救う。1975(昭和50)年4月24日に公開された(西鋭夫『國破れてマッカーサー』中央公論社、1998年)。内容の要点は以下の通りである。 「天皇を告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるだろう。その結果もたらされる事態を鎮めるのは不可能である」「天皇を葬れば、日本国家は分解する」 連合国が天皇を裁判にかければ「(日本国民の)憎悪と憤激は、間違いなく未来永劫に続くであろう。復讐のための復讐は、天皇を裁判にかけることで誘発され、もしそのような事態になれば、その悪循環は何世紀にもわたって途切れることなく続く恐れがある」 「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地域や地方でゲリラ戦が発生する」「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入するという希望は悉く消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるだろう」 「(そのような事態が勃発した場合)最低100万人の軍隊が必要であり、軍隊は永久的に駐留し続けなければならない。さらに行政を遂行するためには、公務員を日本に送り込まなければならない。その人員だけでも数10万人にのぼることになろう」  そして、陸軍省をこれだけ脅かした後、「天皇が戦犯として裁かれるべきかどうかは、極めて高度の政策決定に属し、私が勧告することは適切ではないと思う」と外交辞令で長い電報を締めくくった。 マッカーサーの描いた「天皇なき日本」の悪夢に満ちた絵は、彼の期待どおりの奇跡をもたらした。この電報を受け取った陸軍省は、すぐさま国務省(バーンズ長官とアチソン次官)との会議を持つ。国務省と陸軍省は、天皇には手をつけないでおくことに合意したのだ。第二次世界大戦終戦直後、厚木飛行場に降立つマッカーサー元帥 マッカーサーにとって、日本占領を円滑に行うには天皇が必要だった。天皇が退位する可能性もあったので、マッカーサーは、天皇に思いとどまらせるため全力を挙げていた。天皇が退位すれば、日本の共産主義者たちが有頂天になり、大混乱をもたらし、己の政治生命が危ういと恐怖を感じていたのだ。 マッカーサーが陸軍省に打電した長い極秘電報は、天皇を救った「蜘蛛の糸」だったのか。いやそうではない。今にも切れそうな細い「糸」にぶら下がっていたのは、マッカーサー自身だった。極秘文書の英文※参考のため英文の極秘文書を紹介するTOP SECRET25 January 1946From: CINCAFPAC(Commander in Chief, American Forces, Pacific)MacArthurTo: War Department, WARCOS (War Department, Chief of Staff), Joint Chiefs of Staff“... investigation has been conducted here under the limitations set forth with reference to possible criminal actions against the emperor. No specific and tangible evidence has been uncovered with regard to his exact activities which might connect him in varying degree with the political decisions of the Japanese Empire during the last decade. I have gained the definite impression from as complete a research as was possible to me that his connection with affairs of state up to the time of the end of the war was largely ministerial and automatically responsive to the advice of his counselors. There are those who believe that even had he positive ideas it would have been quite possible that any effort on his part to thwart the current of public opinion controlled and represented by the dominant military clique would have placed him in actual jeopardy.“If he is to be tried great changes must be made in occupational plans and due preparation therefore should be accomplished in preparedness before actual action is initiated. His indictment will unquestionably cause a tremendous convulsion among the Japanese people, the repercussions of which cannot be overestimated. He is a symbol which unites all Japanese. Destroy him and the nation will disintegrate. Practically all Japanese venerate him as the social head of the state and believe rightly or wrongly that the Potsdam Agreements were intended to maintain him as the Emperor of Japan. They will regard allied action ***** betrayal in their history and the hatreds and resentments engendered by this thought will unquestionably last for all measurable time. A Vendetta for revenge will thereby be initiated whose cycle may well not be complete for centuries if ever.“The whole of Japan can be expected, in my opinion, to resist the action either by passive or semiactive means. They are disarmed and therefore represent no special menace to trained and equipped troops but it is not inconceivable that all government agencies will break down, the civilized practices will largely cease, and a condition of underground chaos and disorder amounting to guerrilla warfare in the mountainous and outlying regions result.”“I believe all hope of introducing modern democratic methods would disappear and that when military control finally ceased some form of intense regimentation probably along communistic line would arise from the mutilated masses. This would represent an entirely different problem of occupation from those not prevalent. It would be absolutely essential to greatly increase the occupational forces. It is quite possible that a minimum of a million troops would be required which would have to be maintained for an indefinite number of years. In addition a complete civil service might have to be recruited and imported, possibly running into a size of several hundred thousand.”“An overseas supply service under such conditions would have to be set up on practically a war basis embracing an indigent civil population of many millions. Many other most drastic results which I will not attempt to discuss should be anticipated and complete new plans should be carefully prepared by the Allied powers along all lines to meet the new eventualities. Most careful consideration as to the national forces composing the occupation force is essential. Certainly the US should not be called upon to bear unilaterally the terrific burden of man power, economics, and other resultant responsibilities.”“The decision as to whether the emperor should be tried as a war criminal involves a policy determination upon such a high level that I would not feel it appropriate for me to make a recommendation but if the decision by the heads of states is in the affirmative, I recommend the above measures as imperative.”■ 「あれは日本の自衛戦争だった」 敵将マッカーサー証言は重い ■ 「国民を見捨てない」陛下の覚悟さえも貶めた裏切り者の日本人■ 御聖断のインテリジェンス

  • Thumbnail

    記事

    日本のシンドラー、杉原千畝「美談」に隠された真実

    スパイであった可能性が示唆されている。これは杉原を偉人と見てきた日本人には驚きだろう。もし本当なら、戦争中の日本の重大な外交通信は全部ソ連に筒抜けになっていたことになる。また、現代日本人が再度杉原を使った謀略にだまされていることになる。 ここで、ユダヤ人と日本との関係を説明しておきたい。ユダヤ人は旧約聖書によると紀元前13世紀ごろ、古代エジプトからパレスチナに移住してきた民族である。その後、紀元2世紀、ローマ帝国の支配に対し反乱を起こしたが敗北し世界に散逸した。混血により外見は金髪から黒髪までいろいろだが、彼らに共通する特徴として、ユダヤ教の堅持、現地権力への迎合と出世(象徴的なのは英国の宰相ディズレーリ)、そして矛盾するようだがイスラエル建国のシオニズム運動における強い民族的連帯が挙げられる。このうちユダヤ教文化の固守がキリスト教に嫌われ欧州各国で暴行、略奪、殺害などの民族迫害を受けてきた。 歴史上日本とユダヤの関係は明治から始まった。明治のお雇い外国人の多くがユダヤ系だったという。それは優秀だが、人種差別で出世できないので好待遇もあり日本に来たのである。日露戦争では、米国のユダヤ金融家のシフ氏が音頭を取って資金不足の日本の戦時外債を購入してくれた。『高橋是清自伝』にあるので若い人はぜひ読んでほしい。シフ氏の日本債権の購入動機は帝政ロシアが日本にてこずることにより、ロシアのユダヤ人弾圧が緩和されることを望んだという。シフ氏は戦後来日し明治天皇の昼食会に招かれている。このため日本軍部はユダヤ人に深く恩義を感じていたという。母校の愛知県立瑞陵高校にある「杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアル」。右が杉原千畝の銅像=2018年10月、名古屋市 1917年にロシアで共産革命が起こると共産軍に対抗してウラジオストックに各国軍隊が集結した。日本軍参謀本部はユダヤ民族がロシアの共産党、反革命軍、諸外国の軍隊に広く分布していることに気付き専門家を任命し研究を始めた。それが安江大佐と犬塚大佐である。このとき、ロシア共産党の支配を逃れて約5千人のユダヤ人が満洲に逃亡し、極東ユダヤ人協会を設立した。1931年の満州事変で日本は全満洲を支配したが、ユダヤ人の保護は続けたのだ。ユダヤ難民を受け入れた「犬塚機関」 そして1933年、ドイツでヒトラーが政権を取ると、ユダヤ人迫害が始まった。ユダヤ系ドイツ人は海外脱出を望んだが、米英は長年の偏見で受け入れを拒否した。このため、ユダヤ人は当時唯一上陸可能な支那事変中の上海租界(外国人居留地)への移住を考えた。そこで彼らはベルリンとウィーンの日本領事館から日本通過ビザを取得し、欧州発シベリア鉄道でソ連ウラジオ港へ到達し、敦賀、神戸経由で上海到着を計画したのである。 しかし、1938年3月8日、幼児を含むユダヤ人旅客が満洲ソ連国境のオトポール駅に到着すると、突然ソ連国家保安委員会(KGB)に極寒の中、全員下車を命じられた。ソ連は彼らを近くのユダヤ人居留区に収容しようとしたという。しかし、ユダヤ人は、断固拒否し、満州国内の極東ユダヤ人協会経由で満洲国政府に通過の許可を嘆願した。これを樋口中将と安江大佐が上申し、東條英機関東軍参謀長が決裁したので満洲通過が許可された。 これによりユダヤ人は満州を南下し大連、敦賀、神戸経由で上海に到達することができた。樋口中将は欧州駐在経験から残酷なユダヤ人迫害の事情をよく知っていた。上海では日本海軍のユダヤ人問題対策機関「犬塚機関」(犬塚大佐が機関長)が専門にユダヤ人難民を受け入れ、支那事変の物資不足の中でユダヤ教会建設に貴重なセメントを提供し、生徒が帰国した日本人学校の空き校舎を貸与するなど支援した。ユダヤ人の多くは、日本海軍の管理する共同租界の虹口地区に多く住んだが、ほかにフランス租界、米英租界にも居住した。彼らは欧州と違い、収容所(ゲットー)が決められていなかったので自由に生活することができた。 なお、上海のナチスドイツの総領事はユダヤ系ドイツ人をB級ドイツ人と見なし、日本の管理で手間が省けるとして帰国を要求しなかった。また、イタリア船でもユダヤ難民が多数上陸してきた。 もっとも、戦時下の日本のユダヤ人救済は人道問題ではあるが、政治的な狙いがあった。それは米F・ルーズベルト政権の厳しい反日敵視政策の緩和だった。というのは、ルーズベルト政権にはユダヤ人高官が非常に多かったからである。財務長官のモルゲンソーは100%ユダヤ人、ハル国務長官は、母親と夫人がユダヤ人、そして政府の部長クラス以上のユダヤ系は250人以上に上ったという。そこで日本はユダヤ協会ルートで米政府の対日方針の緩和を狙ったのである。斎藤博駐米大使もルーズベルトの反日に万策尽き、ユダヤ人の助けを借りるしかないという考えだった。 しかし、上海のユダヤ人の努力は成功しなかった。それは、米国はキリスト教の国であり、ユダヤ人に対する強い反感があったからである。戦前米国の反ユダヤ団体は400組織、200万人に上り、自動車王フォードまで反ユダヤ雑誌「国際ユダヤ人」を発行していた。このためユダヤ系高官は保身のためルーズベルトの方針に従い外国のユダヤ人同胞の保護ができなかった。ルーズベルト元大統領 この悲惨な例として1939年のセントルイス号事件がある。これはドイツから船を仕立てて米国に逃げてきたユダヤ系ドイツ人を、ルーズベルトの命令でハル長官がニューヨーク港で追い返した事件である。この結果ユダヤ人船客はドイツに戻されナチスに処刑された。日本のユダヤ工作は失敗したが、敗戦まで上海や満洲におけるユダヤ人難民の保護は続けた。これは人道政策と言ってよいだろう。 そして同年9月、上海ユダヤ人協会は犬塚大佐に対し難民救済金が限界(月額27万ドル)に達したので、ビザの発行停止を要望し、日本外務省は了解した。このときまでの上海のユダヤ人人口は1万9千人に達していた。杉原の発行した1500通の十倍以上である。これは重要な数字である。同年12月、日本政府の最高決定機関である五相会議は、ユダヤ人の公平待遇を決定した。追い詰められていた日本にとって、米国の対日政策の緩和は最優先課題であった。処罰されなかった杉原 当時の情勢を時系列で確認しておくと、1939年9月のノモンハン事件講和直後、独ソのポーランド侵略と分割が発生した。独ソの秘密警察は、ポーランドのユダヤ人を迫害した。ユダヤ教の教会や学校を破壊し教師、生徒たちを捕らえ処刑した。このため神学生数百人が緩衝地帯であった隣国のリトアニアに逃亡し隠れた。 そして1940年7月26日、上海のブロードウェイマンションにあった犬塚機関事務所を上海ユダヤ人協会の会長が来訪した。彼は犬塚大佐にユダヤ教の伝統を守るためリトアニアの神学生をぜひ救いたいと伝え、日本通過ビザの再発行を嘆願した。 そこで犬塚大佐が黙考の後承諾すると、会長は感謝のあまり涙を流さんばかりに喜んだという。犬塚大佐が上海総領事経由で外務省に問い合わせたところすぐに許可された。この知らせが上海のユダヤ協会から現地に急報され、その結果ユダヤ人がリトアニアの日本領事館に押し寄せたのである。 7月28日朝、これを見て驚いた杉原は外務省に訓令を仰いだところ、外務省はすぐに発給を許可した。この訓令は日本の外務省に記録が残っている。そこで7月29日から、杉原はビザ給付を開始した。これはソ連のリトアニア占領により杉原が9月上旬に領事館を退去するまで続き、発行記録によれば約1500通のビザを給付している。 この結果、ユダヤ人は、今度は満洲を通らずソ連経由で日本の敦賀に上陸し、神戸経由で上海へ移住した。しかし、1941年6月22日の独ソ戦の勃発によりソ連経由の脱出は終わった。敗戦時の1945年には上海のユダヤ人口は2万5千人になっていた。第一次との差は6千人となる。このため杉原ビザにより6千人が助けられたという意見があるが、実態はソ連の満洲侵略を逃れて在満ユダヤ人5千人の相当数が上海に脱出していたと考えられる。 さらに、杉原はリトアニア退去後昇格し、1944年には勲五等に叙せられた。だからビザの給付で処罰などまったく受けていないことが分かる。 樋口中将については、終戦直後千島防衛司令官として来襲してきたソ連軍に大打撃を与えて撃退したため、戦後ソ連は連合国軍総司令部(GHQ)に戦犯として身柄引渡を要求した。しかし、GHQは拒否した。これをGHQ内のユダヤ系高官の保護とみる人もいる。在リトアニア領事代理だった杉原千畝の陶版肖像画 また、安江大佐は、ソ連軍の大連収容所で虐待され死亡した。1954年に東京の安江家をユダヤ人が訪ね、葬儀が未完と知ると青山斎場で平凡社社長を葬儀委員長として、盛大な葬儀を行った。 犬塚大佐は戦争末期フィリピンで警備司令官をしていたので戦犯容疑者として収監された。しかし、米軍裁判長と弁護士がユダヤ系と分かったため、上海時代米国ユダヤ協会から贈られた銀のシガレットケースの写真を提示すると、本国に照会し1週間で釈放された。なお、この記念のシガレットケースは犬塚きよ子夫人の寄贈により現在イスラエルの民族博物館に収蔵されている。杉原はソ連のスパイ? 一方、杉原夫妻は1944年、ブルガリアでソ連軍に逮捕された。しかし、杉原夫婦は異例にも2年で帰国し、杉原は1947年に外務省に復職している。ソ連のシベリア捕囚ではロシア語が話せるだけでスパイとされ懲役15年または25年を科せられており、虐待により強制収容所で多くの日本人が殺されている。杉原の満洲国外務部時代の上司の下村信貞氏も虐待され殺された。なお、戦後シベリア抑留から早期帰国したドイツ人やイタリア人、日本人の捕虜にはソ連に脅迫されて屈服したソ連スパイが多かったという。 1947年、GHQは外交機能喪失により外務省の職員700人を、杉原を含めて解雇した。杉原は正規の退職金、年金をもらっているから処罰による退職ではない。大体GHQ占領下でユダヤ人救済行為が罰せられるわけがない。 杉原はその後65~75歳までソ連KGB管理下のモスクワに単身赴任し日本商社の駐在所長を務めた。彼の元同僚によると、ユダヤ人救出の話は一切せず、口の堅い人だったという。 イスラエルの研究者によると、杉原は満洲時代セルゲイ・パブロビッチというロシア名を持ち10年間もロシア系の女性クラウディアと結婚していた。そして外務省に入る前に離婚しているため、幸子夫人は後妻である。 イスラエルの歴史学者、ベン=アミー・シロニー氏(勲二等瑞宝章受章)は杉原が戦前からのソ連のスパイであった可能性を示唆している。もしそうなら戦前のソ連側による異例の杉原のモスクワ日本大使館勤務拒否もあり得る。戦後の杉原はモスクワでソ連に監視されていた可能性がある。なおユダヤ人側としては、同胞が助かったことが重要なので、杉原がソ連のスパイであったかは関係がないという。 現代の日本では政府が杉原を顕彰しているが、それなら他の功労者、樋口中将、安江大佐、犬塚大佐も顕彰すべきだろう。最近の杉原の映画は日本と日本軍を誹謗中傷するものであり、まったく受け入れられない。 産経新聞に掲載された袴田茂樹新潟県立大教授の寄稿によると、かつての満洲とソ連の国境の駅であるオトポール駅にはなぜか直接関係のない杉原の展示館があり、オトポールという駅名を変える動きがあるという。樋口中将、安江大佐による第一次ユダヤ人救出の事績の隠蔽工作なのだろうか。戦時下のユダヤ人救出は国際的な史実なので日本政府はこの重要な歴史的事件の内容をイスラエル側の協力を得てはっきりさせることが必要だ。※参考資料・『黒幕はスターリンだった』(落合道夫著 ハート出版)・『ユダヤ人救済にあたった日本人』(犬塚きよ子著 学研)・『ユダヤ問題と日本の工作』(犬塚きよ子著 日本工業新聞社)・『六千人の命のビザ』(杉原幸子著)・『日本の強さの秘密』(ベン=アミー・シロニー著)■「日本を降伏させるな」米機密文書が暴いたスターリンの陰謀■ 理不尽すぎる南雲忠一「愚将論」を徹底論破する■「日米を戦わせよ」1920年のレーニン演説とスターリンの謀略

  • Thumbnail

    記事

    理不尽すぎる南雲忠一「愚将論」を徹底論破する

    久野潤(歴史学者、大阪観光大学講師) かつてわが国には、若いうちから戦争や軍事のことを語るだけでオタク(右翼?)扱いされる時代があった。筆者も小学生時分から大東亜戦史関係の書籍や雑誌を読みあさり、両親を心配させたものである。そして、千早正隆『連合艦隊始末記』や伊藤正徳『連合艦隊の最後』を読んだ久野少年の率直な感想は、「日本海軍ってスゴい!」である。 日米開戦から半年間の快進撃、ミッドウェー海戦で大敗した後の奮戦、そして終戦直前に米重巡洋艦「インディアナポリス」撃沈…。なぜ教科書では順当に敗戦したようにしか書いていないのか不可解に思った。同時に、戦った将兵たちに申し訳ない思いが今でもする。 さて、その中で「日米開戦から半年間の快進撃」と「ミッドウェー海戦後の奮戦」を指揮した提督こそ、南雲忠一中将(戦死後大将)である。昨今大東亜戦争の意義が問い直され、関連ゲームなどの普及で日本海軍が一般にも人気となってきている中でもなお、いわゆる「南雲愚将論」が根強く唱えられている。 まず、南雲中将の経歴を簡単に見てみよう。明治20(1887)年、現在の米沢市に生まれた南雲中将は、藩校の流れをくむ米沢尋常中学校興譲館(現・山形県立米沢興譲館高等学校)を経て海軍兵学校に入校(第36期)。191人中5番の成績で卒業し、巡洋艦「宗谷」「日進」「新高」「浅間」「初雲」「霧島」「杉」に乗り組み、第四戦隊参謀、第三特務艦隊参謀、「如月」艦長を務めたのち海軍大学校甲種学生(第18期)を次席卒業した。 その後も艦隊勤務としては「樅」艦長、第一水雷戦隊参謀、「嵯峨」「宇治」「那珂」艦長、第十一駆逐隊司令、「高雄」「山城」艦長、第一水雷戦隊司令官、第八戦隊司令官、第三戦隊司令官を歴任し、その間軍令部第二課長、海軍水雷学校校長、海軍大学校校長を務めている。 そして昭和16(1941)年4月、日米開戦を視野に航空戦力の集中運用のため新編された世界史上初の機動部隊である、第一航空艦隊(いわゆる南雲機動部隊)の司令長官となった。南雲忠一中将 ミッドウェー海戦の後も第三艦隊司令長官として引き続き機動部隊を率い、南太平洋海戦で雪辱を果たしたのち佐世保鎮守府司令長官となって開戦後初めて前線を離れた。次いで呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を務めたのち昭和19年3月に中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパン島に着任し、その陥落に際して同年7月6日に割腹自決を遂げた(享年57)。 南雲中将が第一航空艦隊司令長官として直接指揮をとった空母機動部隊は、開戦後半年間における主要海空戦(真珠湾攻撃・セイロン沖海戦・ミッドウェー海戦)だけでも敵の戦艦4隻・空母3隻・重巡洋艦2隻をはじめ輸送船その他多数を撃沈した。 これだけの戦果を挙げた現場指揮官は、後にも先にも日本に存在しない。西はインド洋、南はオーストラリア(ダーウィン空襲)、東はハワイに至るまで縦横無尽、まさに無敵艦隊であったのである。ミッドウェー敗戦後も第三艦隊(再編された機動部隊)司令長官としてガダルカナル島をめぐる南太平洋海戦で勝利し、この時撃沈したアメリカ空母「ホーネット」は、日本空母の艦載機が撃沈した最後の敵軍艦となった。南雲中将への理不尽な批判 さて、そんな南雲中将に対する理不尽な批判は政戦両面にわたるが、こと日米戦争の重要局面においては、下記の二つがまず議論になろう。①ハワイ作戦(昭和16年12月)で真珠湾に対して第二次攻撃(第三波攻撃)を行わなかった②ミッドウェー海戦(昭和17年6月)という「勝てる戦」で大敗北を喫し、そのせいで戦局が逆転した まず①については完全な後知恵に基づいたものであり、奇襲を任務とした作戦についてはあり得ない批判であろう。実際、完全奇襲であった第一波攻撃隊でも9機、敵が体勢を立て直した第二波攻撃では20機の未帰還機を出しており、さらなる強襲を行えばどうなるか。そして真珠湾で攻撃できた相手は戦艦であり、肝心の敵空母が所在不明のまま追加攻撃を行うリスクも高い。 そもそも日本軍機が敵大型艦を攻撃すること自体が初めてのことであり、浅沈魚雷も徹甲爆弾もこの作戦に合わせて開発された。どれほどの攻撃でどれほど敵艦に対する戦果を挙げられるかも未知数であった。であれば敵戦闘機による反撃を制圧するための飛行場攻撃などを除いては、とにかくまず敵艦攻撃に戦力を振り向けるのが当然であり、ドッグや石油タンクを攻撃しなかったという批判も的外れではないか。 本来の主目標であった空母が不在であったという誤算を除いては、むしろ南雲機動部隊は予想以上の戦果を挙げたといえる。これは、南雲中将が水雷畑で航空魚雷の攻撃力を重視した結果であると見ることも可能であろう。敵戦艦をほぼすべて撃沈・撃破したという結果を先に立てて逆算するような批判には、悪意さえ感じる。 後者については、敵空母攻撃のための第二次攻撃隊をミッドウェー島攻撃のために魚雷→爆弾と換装し、その最中に敵空母発見で再びその攻撃のために爆弾→魚雷と換装した二重の兵装転換が焦点となっている。これは①とは逆で、普段は空母6隻で運用されていた南雲機動部隊が、先の珊瑚海海戦に参加した2隻(「瑞鶴」「翔鶴」)を外して4隻(「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」)でミッドウェー島攻撃(敵戦力無効化)と敵空母撃滅という多重かつ過剰な任務を負わされたという問題がまず存在する。 一方で皮肉にも、航空兵力の集中運用のため機動部隊を創設した山本五十六連合艦隊司令長官は本海戦では、南雲機動部隊のはるか500キロ後方で戦艦「大和」以下主力艦隊を率いていた。アメリカ側のニミッツ長官も「日本軍が6隻の空母(筆者注:「瑞鶴」「翔鶴」を除いてもなお6隻運用可能であった)、11隻の戦艦などを集中運用していたならば、いかなる幸運や技量をもってしても敗走させることはできなかった」と回顧している。戦艦「大和」※撮影年月日不明 そして双方に共通して、南雲中将と対置されるのが第一航空艦隊で第二航空戦隊(「飛龍」「蒼龍」)司令官であった山口多聞少将である。ハワイ作戦の際に山口司令官は第二次攻撃を主張し(実際は「第二撃準備完了」と信号を送ったのみ)、ミッドウェー海戦では敵空母発見に際し「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」と進言したということをもって、南雲中将ではなく山口少将が機動部隊の指揮官であればミッドウェーは勝てたという議論も盛んである。 しかしハワイ作戦については前述の通りであり、ミッドウェー海戦については、仮に「直チニ攻撃隊発進」させたとしても直ちに大戦果にはつながらない可能性が高い。 各空母所属の零戦は同時並行で来襲していた敵機の迎撃に追われていたため、攻撃隊に随伴させる戦闘機がほとんど確保できない状態であったのである。本海戦の直掩(直接掩護)任務の壮絶さについては、拙稿「零戦最後の証言者 原田要の戦争」(『丸』平成28年8月号)を参照されたい。史実を曲げてまで山口を称賛 実際、その後「飛龍」より発進した九九艦爆18機/零戦6機の小林隊はそれぞれ13機/3機、九七艦攻10機/零戦6機の友永隊は5機/3機を失っている。アメリカ側のレーダーと、艦載機の半数近くを占める戦闘機による強固な防御に対し、戦闘機の護衛なしの攻撃隊は無力であったであろう。 極端なものでは、「山口司令官が指揮する『飛龍』『蒼龍』では第二次攻撃隊に、敵空母攻撃のため(兵装転換させずに)魚雷搭載のまま待機させていた」という俗論まで流布されてきた。 戦後の映画などでもそのように描写されたため誤解されがちだが、実際は「飛龍」「蒼龍」の九七艦攻(魚雷装備可能)は第一次攻撃で出払っており、第二次攻撃用に残っていたのは九九艦爆のみであった。山口司令官が勇将たることに筆者も異存はないが、史実を曲げてまで山口司令官を称賛することには賛同しかねる。そして山口司令官は敵の急降下爆撃による「赤城」「加賀」「蒼龍」3空母炎上を目の当たりにしながら、「飛龍」も同日まったく同様に急降下爆撃を受けて炎上・沈没するのである。 そして南雲中将が即時出撃よりも各空母格納庫での兵装転換を優先させたため、その最中に第一攻撃隊および直掩戦闘機を飛行甲板から収容できた。そのおかげで、300機以上の艦載機を失いながらも、熟練搭乗員の戦死は「飛龍」72人を別にすれば、「赤城」7人/「加賀」21人「蒼龍」10人で済んだのである(真珠湾攻撃での搭乗員戦死者は54人)。山口多聞少将 もし山口司令官の具申通りに艦載機収容もせずに第二次攻撃隊を発進させていたならば、全機不時着で搭乗員の損失も格段に大きくなっていた可能性が高い。そして、ミッドウェー敗戦後になお敵機動部隊に痛撃を与えるような戦闘は望むべくもなかろう。 このように、山本長官や山口司令官が高評価を受ける陰で酷評されてきた南雲中将は、自決の直前の訓示の中で「余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす」と述べている(『戦史叢書』)。 南雲中将の後を継いだ小沢治三郎中将率いる第一機動艦隊はマリアナ沖海戦でアメリカ機動部隊に一方的な惨敗を喫し、日本の機動部隊は壊滅した。かつて太平洋で無敵を誇った機動部隊の指揮官として、その無念はいかばかりであろうか。少なくとも筆者は後世からの軽率な評論を控え、本年も8月15日に臨んでまずは、連合軍を震撼(しんかん)させた歴戦の指揮官に深甚なる敬意と顕彰の誠を捧げたい。

  • Thumbnail

    テーマ

    「平成最後の夏」にあの戦争を考える

    年目の夏でもある。終戦の日。今上天皇が最後の戦没者追悼式にご臨席された。大戦の記憶は薄れゆくが、あの戦争とは結局何だったのか。平成最後の夏に考えたい。

  • Thumbnail

    記事

    「サルと雨下」731部隊、軍医論文に隠された人体実験の謎

    常石敬一(神奈川大学名誉教授) 4月14日、京都で「研究者が戦争に協力する時ー731部隊の生体実験をめぐって」という話をする機会があった。その集まりを産経新聞大阪本社版は「731部隊、人体実験か 軍医論文『不自然』と研究者有志」のタイトルで報じた。僕の話は、731部隊の軍医の博士論文を分析した結果見えてきた「不自然」を指摘したものだった。 なぜ、博士論文の分析なのか。731部隊については、1936年から45年までの間、人体実験の実行と細菌戦の試行が指摘されている。それらが事実であることの証拠を、僕は歴史の研究者として集め分析し、論文などとして明らかにしてきた。 部隊の存在、人体実験や細菌戦はどれも事実で、日本にとって負の遺産である。負の遺産を明らかにするのに最も説得力を持つのは、当事者が残した記録であり、また日本国が保管している公文書であろう。博士論文は博士号取得のために自発的に書き、審査されたものだ。審査に合格ということは、書かれた内容を大学院の審査委員が真実と認めた証しだ。 博士論文の証拠価値は、本人の自由意思と第三者による内容承認、この二重の事実認定という長所にある。731部隊の実態を明らかにする一つの方法として、部隊員の博士論文の分析を続けてきた。 そして人体実験を基にした博士論文として「イヌノミのペスト媒介能力に就ての実験的研究」(H・M軍医少佐、京都大学、1945年)に、また細菌戦の試行を明らかにしたものとして「雨下散布の基礎的考察」(K・J軍医少佐、東京大学、1949年)に出会った。これらの論文は国立国会図書館で閲覧することができる。京都で話したのは、H・Mの博士論文とその審査についてだ。 H・Mの論文のポイントは、従来ペストを媒介しないと考えられていた蚤(のみ)の一種、イヌノミもその能力があることを実験的に明らかにした点にある。その論文の表紙には、著者名と「軍医少佐」の肩書、それに「満州第七三一部隊(部隊長陸軍軍医中将石井四郎)」と所属先が記され、さらに「軍事秘密」と朱印が押されている。関東軍編制人員表(満洲)=昭和15年7月~20年(防衛省防衛研究所) 内容は「特殊実験」として、ペスト菌に感染しているイヌノミ1匹、5匹、10匹に、それぞれ3頭のサルの血を吸わせた。すると「附着後6-8日にして頭痛、高熱、食思不振を訴え、同時に局部淋巴(りんぱ)腺の腫脹(しゅちょう)、圧痛、舌苔(ぜったい)、眼結膜充血を、その他典型的なる腺ペストの症状を示せり…イヌノミによるサルの感染発症死亡を確認」したという。 内訳は、ノミ1匹のグループのサルは感染せず、5匹のグループでは1頭が感染発症、そして10匹のグループでは2頭が感染発症した。高熱と食思不振は言葉によるコミュニケーションがなくても分かるが、頭痛は言葉なしに「訴える」ことはできない。しかし、その訴えはH・Mに届いた。ヒトをサルと書いたH・Mの経歴 H・Mの論文を審査した京大が学位授与を文部省に申請した書類には、審査員の意見として、「特殊実験を行ひ先人の見解と異なりイヌノミも亦(また)人類に対するペスト媒介蚤なる新事実を発見せり…右論文は学術上有益」と記している。 京大教授たちはH・Mの特殊実験を問題にすることなく、むしろ積極的に評価し、学位授与を決定した。H・Mがヒトをサルと書いていることは、これが許されない人体実験であることを自ら認識していたことを示している。 京大の申請書類は、国立公文書館で閲覧することが可能だ。公文書館の書類によれば、H・Mが学位申請をしたのは45年6月6日で、教授会の審査が同じ6月6日、文部省への上申が6月28日、文部省の認可が9月26日だった。学位申請日と審査日が同日というのは、通常はありえないことである。H・Mは申請から間もない6月11日に、航空機を操縦していて墜落死している。 H・Mが学位申請のために京大に提出した履歴書によれば、37年10月30日に熊谷陸軍飛行学校で操縦術を習得し、39年3月9日に731部隊付となった。部隊員になった後の41年2月から7月まで、白城子陸軍飛行学校で航法術の研修を受けている。 墜落死を証言している血清学者のA・Sによれば、H・Mは医学部出身にも関わらず、「任務はもっぱら飛行機の操縦だけという、なんとも奇妙な役割であった」と回想している(『医の倫理を問う』勁草書房)。659部隊(関東軍防疫給水部)留守名簿 K・Jの論文は、41年8月に『防疫研究報告』1部41号として出版されたものだ。『防疫研究報告』は731部隊長石井四郎の本拠、軍医学校防疫研究室が出している研究誌で、1部と2部がある。1部の表紙には「軍事秘密」と印刷されているが、2部では論文によって秘の印が押されているものがあり、秘密指定のものとそうでないものとが混在している。 K・Jの41年8月の論文の表紙には、その当時の肩書「陸軍軍医大尉」と所属「陸軍軍医学校防疫研究室(部長石井少将)」が記されている。 国立公文書館が保管するK・Jの学位授与の文書によれば、K・Jが東大に学位申請をしたのは44年12月15日、東大が審査の教授会を開催したのが48年11月10日、東大が文部省に学位認可の上申をしたのが48年11月25日、文部省が認可したのが49年1月10日だった。先のH・Mの場合の申請日と審査日とが同日というのは異常だが、K・Jのその間4年というのも異例だ。東大が東京裁判の判決を待った意味 異例の長さは、この論文が細菌戦についての研究であり、審査をした東大が申請者の戦犯の可能性を考慮したのではないかと考えることができる。また可能性としては、審査で合格とすれば東大自身が戦犯扱いとなる恐れを感じていたかもしれない。 当時東大は、東京裁判の成り行きを見ていたのだと思う。その判決言い渡しが11月4日に始まり、戦犯訴追の恐れがなくなったと判断し、満を持して11月10日を学位審査日として、一連の手続きを開始したと思われる。 K・Jは学位請求前に東大で2年間研修を受けており、論文提出時には学位が約束されていたのだと思う。ところが敗戦で情勢が変わり、戦犯訴追の可能性から、審査開始まで長い時間がかかったのだと推測できる。しかしこの長い時間は、東大の審査委員が論文を読み、内容を理解していたことを意味している。 論文のタイトルにある「雨下」は、軍事的には航空機から雨が降るように毒ガス(ガスというが本体は液体)や細菌をまくことである。K・Jは、航空機から細菌をまくとどのように地面を汚染でき、感染を引き起こすことができるかを論じている。 その具体例として、自身が参加した40年10月4日および27日の、寧波(ニンポー)など中国中部へのペスト菌による細菌戦試行を含む、日本軍による試行例6件について紹介している。K・Jの見積もりでは、6件での死者は695人、使用した「PX」と称するペスト菌に感染させたノミは約11・7キログラムとしている。 K・Jが学位審査のために東大に提出した履歴書によれば、40年当時彼は731部隊員だったが、同年7月19日から11月3日まで、南京の中支那防疫給水部に出向している。中支那防疫給水部は731部隊の姉妹部隊で、40年秋の細菌戦試行の中心部隊だった。K・Jの学位論文は実戦での細菌雨下を踏まえ、その理論的研究を記述したものだった。ノモンハンの戦場での山縣部隊長石井部隊長の会見=昭和14年6月~9月(防衛省防衛研究所) 45年8月から11月13日までの731部隊についての米国調査を、日本の立場でまとめた資料がある。防衛省防衛研究所が保管する「新妻清一所蔵文書」である。新妻は元陸軍中佐で、軍務局軍事課員として陸軍の技術政策を取り仕切っていた関係で、731部隊員の尋問にも立ち会うことになった。 この資料の中に、石井部隊長の右腕だったM・T軍医大佐から新妻に宛てた、45年11月9日付の手紙がある。その一節に、石井部隊長の知恵袋だった「N軍医中佐の意見は(タ)と(ホ)以外は一切を積極的に開陳すべしと云ふ持論」というくだりがある。人体実験を巡る米ソの動き (タ)というのは人体実験を、(ホ)というのはPXによる細菌戦を意味していた。つまり、人体実験と細菌戦の二つは隠し通そうと決めて米軍の尋問に臨んでいた。その方針が頓挫したのは、47年1月になって米国がソ連から、人体実験と細菌戦試行の嫌疑で石井部隊長たちを裁判にかけるべきである、と要求されたことだった。それまで米国は、731部隊での人体実験や細菌戦の試行をつかんでいなかった。 米国は終戦直後から1年半にわたり石井部隊長の尋問も含め調査をしたが、(タ)と(ホ)に行き着くことができなかった。ソ連の要求を受け再尋問・再調査を行い、ほぼ1年をかけて人体実験と細菌戦試行の全貌を把握することになった。 再調査当初は、ソ連に渡してもよい情報と阻止する情報の整理から始め、最終的には米国が独占する道を選んだ。そのことが、49年12月にソ連がハバロフスクで行った、関東軍司令官ら731部隊に関係したと判断された日本軍軍人の裁判につながった(米軍資料については『標的・イシイ』大月書店および 「Researching Japanese War Crimes」IWG)。 昨年、NHKの番組がハバロフスク裁判の公判の音声テープを紹介した。それを基に、今年になってBSで2時間のドキュメンタリーが放映された。数日後、いつも励ましてくださる方から、「鬼ではなく、人間が登場した」という感想の手紙をいただいた。 BS版では、公判の最後で涙ながらに後悔の念を語り、日本帰国間近に自死を選んだ被告のご遺族が、父について語っていた。自分たちの父が、という戸惑いや当惑があっただろうが、それでもカメラの前で思いを語っていた。父は子供思いだっただろうし、その子は幼い頃別れた父を慕っていただろう。見る人にそういう思いを抱かせるシーンだった。山縣部隊長と石井部隊長 家庭ではよき父、また大学ではよき教師、あるいは部下に優しい人が、人体実験に手を染めたり、細菌戦の試行に参加したりするのだ。 航空機事故で死亡したH・Mを本に書いたA・Sが知っていたのは、同じ平房の隊員宿舎に住むH・M家のよき父であり、かつ細菌戦試行において細菌攻撃のための飛行機を操縦したパイロットであり、イヌノミの人体実験をする研究者だった。宿舎での平穏な生活と、部隊での野蛮な実験や攻撃とを区別する境界線はないのだろうか。 部隊員は自分をどう納得させていたのだろう。この問題は731部隊の問題というより、昨今の車の検査データ不正、銀行の異常な融資など、現代社会における仕事で出会うことがある、「自分の良心との格闘」という問題なのだと思う。731部隊の問題は鬼だったから起きた、と切り捨てるのではなく、人間がやったのだと正視し、自分ならどうすると考える必要がある問題なのだ。

  • Thumbnail

    記事

    「日本を降伏させるな」米機密文書が暴いたスターリンの陰謀

    江崎道朗(評論家) 「ヴェノナ(VENONA)文書」という存在をご存じだろうか。その文書の公開によって現在、世界各国では、第二次世界大戦と日米開戦の歴史が大きく見直されつつある。 「国民の知る権利」を重んじる民主主義国家では、一定の期間が経過すると、国家の機密文書も原則として公開される。実は「民主主義国家」を自称するアメリカも情報公開を進めており、1995年に「ヴェノナ文書」を公開した。 これは、1940年から44年にかけて、アメリカにいるソ連のスパイとソ連本国との暗号電文をアメリカ陸軍が密かに傍受し、43年から80年までの長期にわたってアメリカ国家安全保障局(NSA)がイギリス情報部と連携して解読した「ヴェノナ作戦」に関わる文書のことだ。 第二次世界大戦当初、フィンランドを侵略したソ連は、「侵略国家」として国際連盟から除名された。ところが、ドイツがソ連を攻撃した41年以降、「敵の敵は味方」ということでアメリカのルーズベルト民主党政権やイギリスのチャーチル政権は、スターリン率いるソ連と組むようになった。こうした流れの中でソ連に警戒心を抱いたのが、アメリカ陸軍情報部特別局のカーター・クラーク大佐だ。 クラーク大佐は43年2月、特別局の下にあった通信諜報部(後のNSA)に、アメリカとソ連本国との暗号電文を傍受・解読する作戦を指示する。ヴェノナ作戦と名付けられたこの暗号傍受作戦は44年、ホワイトハウスから中止を命じられたが、彼らはその後も密かに作戦を続行し、驚くべき事実を突き止める。ルーズベルト大統領の側近たちに、ソ連の工作員と思しき人たちがいたのだ。 だが、ソ連はアメリカの同盟国であり、ルーズベルト大統領の名誉を傷つけるわけにはいかない。アメリカのインテリジェンス(諜報)能力をソ連に知られるのも得策ではない。こうした政治的思惑から、この情報は長らく国家機密として非公開にされてきた。1944年8月、ホワイトハウスで語り合うルーズベルト大統領(右)とトルーマン上院議員(当時) そして95年、第二次世界大戦が終わって50年が経ち、当時の関係者の大半が鬼籍に入った。ソ連という国も崩壊した。そこでようやく、このヴェノナ文書が公開されたのだ。この情報公開に際してアメリカ連邦議会下院の中に設置された「政府の機密守秘に関するモイニハン委員会」は97年、「最終報告書」でこう指摘している。 顕著な共産主義者の共同謀議がワシントン、ニューヨーク、ハリウッドで実施されていた。(中略)ヴェノナのメッセージは、確実に事実の偉大な貯蔵物を提供し、歴史の隙間を埋める事態を至らしめるであろう。 要するにアメリカ連邦議会として、戦前から戦時中に「顕著な共産主義者の共同謀議がワシントン、ニューヨーク、ハリウッドで実施されていた」ことを認めたわけだ。歴史物が大好きな『NHKスペシャル』がなぜこのヴェノナ文書に飛びつかないのか、本当に不思議だ。 しかも、ルーズベルト民主党政権下のアメリカでソ連の工作員たちが暗躍し、アメリカの対外政策に大きな影響を与えていたこと、特に日米開戦とソ連の対日参戦、そして日本の終戦に深く関係していることが、このヴェノナ文書の公開とその研究の進展によって判明しつつあるのだ。米国でも進む歴史の見直し 例えば、アメリカを代表する保守派の言論人であるM・スタントン・エヴァンズが、「ヴェノナ文書」研究の第一人者であるハーバート・ロマースタインと共著で『Stalin's Secret Agents: The Subversion of Roosevelt's Government(スターリンの秘密工作員:ルーズベルト政権の破壊活動)』(Threshold Editions 2012 未邦訳)を発刊しているが、ここで実に重要なことを指摘している。 日本もアメリカの軍幹部も早期終戦を望んでいたにもかかわらず、終戦が遅れたのは、対日参戦を望むソ連が、在米の工作員たちを使って早期終戦を妨害したからだ、というのだ。 45年2月、ヤルタ会談において、ルーズベルト大統領は、ソ連の対日参戦の見返りとしてソ連による極東の支配をスターリンに約束する。しかし、ヤルタ会談での密約は所詮、紙切れに過ぎない。スターリンからすれば密約を確実に実現するためには、なんとしても対日参戦に踏み切り、軍隊を侵攻させ、満洲や千島列島などを軍事占領する必要があった。 ヤルタ会談当時のソ連はヒトラー率いるドイツと血みどろの戦いを繰り広げており、ドイツ占領下の東欧に軍事侵攻して東欧をソ連の支配下に置くことを優先させていた。戦力に限りがあったソ連としては独ソ戦を片付け、東欧諸国を軍事占領したあとでなければ、極東地域に軍隊を送り、満洲や日本に侵攻することはできなかった。よって日本が早期に降伏してしまったら、ソ連は対日参戦ができなくなり、アジアを支配下に置くチャンスを失ってしまう。 『スターリンの秘密工作員』の著者、エヴァンズはこう指摘している。 スターリンの立場からすれば、ソ連が太平洋戦線に参戦し、軍隊を東に移動し、戦後のアジアに関する要求を確実にできるような軍備拡張をする時間を稼ぐため、日本の降伏を遅らせることが不可欠だった。この点において、完全な亡国に至らずに済むような何らかのアメリカとの和平案をスターリンが日本の同盟国として仲介してくれるのではないかと信じた─あるいは望んだ─日本は、スターリンの術中に陥っていたのである。(中略)また、アメリカの特定集団がアジアで「過酷な」和平を要求し続けたことも、日本の降伏を遅らせるのに役立った。(詳細は拙著『日本は誰と戦ったのか』KKベストセラーズ参照) この「特定集団」とは、トルーマン政権に近い民間シンクタンク「太平洋問題調査会」のことだが、ヴェノナ文書によって、この研究員の多くがソ連の工作員であったことが判明している。 「ソ連の対日参戦を実現するまで日本を降伏させるな」。ソ連のスターリンのこうした意向を受けた終戦引き延ばし工作が、日本に対してだけでなく、アメリカのルーズベルト、そしてトルーマン政権に対して行われていた。その工作の結果、ソ連の対日参戦が実現し、中国や北朝鮮という共産主義国家が誕生してしまった。(ゲッティイメージズ) こうした視点がヴェノナ文書の公開以降、アメリカにおいて浮上していることを知っておいていいはずだ。新たに公開された機密文書を踏まえず、アメリカでの歴史見直しの動向も無視したまま、戦前の日本「だけ」が悪かったと言い募るような、視野狭窄(きょうさく)はもうやめようではないか。

  • Thumbnail

    記事

    インパール作戦をただの「無謀な作戦」と言うなかれ

    井上和彦(ジャーナリスト) インパール作戦。現代日本では、大東亜戦争における無謀な作戦の代名詞の一つとして批判にさらされ続けている。だがインドでは、この戦いは対英独立戦争の端緒として位置づけられており、英国と戦った日本軍が感謝されていることは、ほとんど知られていない。 昭和19年3月から始まったこの戦いは、日本軍総兵力7万8千人と、日本軍の支援で創設された「インド国民軍」(INA=Indian National Army)約1万5千人の将兵が、インド東端に位置する英印軍の要衝インパールを攻略すべく、ビルマ(現ミャンマー)を超えて進撃した一大作戦であった。目指すは首都デリー。その目的は、英国からのインド解放と独立だった。 この「インド国民軍」とは、大東亜戦争開戦劈頭(へきとう)のマレー半島攻略作戦時に、日本軍の呼びかけに応じて投降した英印軍の中のインド人兵によって編成された軍隊組織で、その目的は英国からのインド独立であった。もちろん、それゆえに士気は高く、日本軍将兵とともに各地で勇猛果敢に戦った。 緒戦、日印連合軍は各地で大激戦を繰り広げ、場所によってはインド国民軍だけで英軍と戦闘を行った。こうして、インド国境を越えて進撃する日本軍とインド国民軍は各地にインド国旗を打ち立て、首都デリーへの進撃を誓い合ったのだった。 シンガポールでインド国民軍を指揮したのは、国民的英雄スバス・チャンドラ・ボース。今でもインド国民から「インド独立の父」として尊敬を集めており、首都デリーの中心部にはボースの大きな銅像が建つ。銅像のボースは、かつての英植民地支配の象徴であった城塞レッド・フォート(赤い砦)の方角を指さしており、ボースの独立への闘志がうかがえる。 だが敢闘むなしく、日印連合軍は、圧倒的物量を誇る英印軍に大敗北を喫したのである。日本軍は、補給を重要視せず、結果として3万人の戦死・戦病死者とその同じ数の戦傷者を出したのだから無謀な作戦というそしりは逃れられまい。そして現代でも、この作戦を指揮した軍上層部への厳しい批判は止むことを知らない。 だが、それでも日本軍将兵は今も地元の人々から尊敬を集めていることに驚かされる。ムガル帝国時代の城塞で英国軍が大本営として接収したレッド・フォート(ゲッティイメージズ) そして、インド解放のために英軍と戦った日本軍将兵に対して、インド国民軍全国在郷軍人会代表で元インド国民軍S・S・ヤダバ大尉は、1998年1月20日にこう記している。 われわれインド国民軍将兵は、インドを解放するためにともに戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対してもっとも深甚なる敬意を表します。インド国民は大義のために生命をささげた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまで決して忘れません。われわれはこの勇士たちの霊を慰め、ご冥福をお祈り申し上げます。(靖国神社 遊就館)日本軍将兵が今も尊敬されている理由 さらにインド最高裁弁護士のP・N・レキ氏は次のような言葉を残している。 太陽の光がこの地上を照らす限り、月の光がこの大地を潤す限り、夜空に星が輝く限り、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない。 かつてインパールを取材した私の友人は、そのときの話をしてくれた。「とにかく多くの人々が口をそろえて言っていたのが、『日本兵士は強かった。勇敢だった』ということです。中には『これほど高貴な軍隊は見たことがない。神のようだ』とも語っていたんです」 さらにこの友人は、日本軍将兵が今も尊敬されている理由について、こう話してくれた。「そしてもう一つは、やはり日本軍の規律の厳しさではないでしょうか。というのも、どの人に聞いても『日本兵は、悪いことは何もなかった』『日本兵はみんな親切で、礼儀正しかった』と言っていたんですよ」 大東亜戦争後の昭和20年11月、英国はインパール作戦に参加したインド国民軍の将校3人をレッド・フォートにおいて裁判に掛け、反逆罪として極刑に処そうとした。だが、その事実が人々に伝わるや、インド民衆が一斉に蜂起して大暴動に発展したのである。首都デリーに建つチャンドラ・ボースの銅像(筆者撮影) なんと英軍の対日戦勝パレードがボイコットされ、弔旗が掲げられたという。こうした独立の機運はどんどん高まっていき、もはや事態収拾が不可能と判断した大英帝国はついにインドに統治権を返還。1947年(昭和22)8月15日、インドは独立を勝ち取ったのだった。 インパール地方には、地元民が建てた日本軍将兵のための慰霊碑があり、前述の近郊のマパオ村では、『日本兵士を讃える歌』という歌が今でも歌い継がれているというから驚きだ。「独立インドのシンボル」 激戦地の一つであったマニプール州の2926高地近くのグルモハン・シン氏はこう語る。 日本の兵隊さんは命を張って私たちを戦場から逃し、戦ってくれました。いまこうして私たちがこうして生きていられるのも、みんな日本の兵隊さんのおかげだと思うと感謝の気持ちでいっぱいになります。一生この気持ちは忘れることはできません。『自由アジアの栄光』 そして、この丘の麓のロトパチン村には、現地の人々によって建てられた日本兵の慰霊塔があり、毎年日本兵の供養が行われているという。この慰霊塔建立の推進役となったロトパチン村のモヘンドロ・シンハ村長はこう語っている。 日本の兵隊さんは飢えの中でも実に勇敢に戦いました。そしてこの村のあちこちで壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動のすべては、みんなインド独立のための戦いだったのです。私たちはいつまでもこの壮絶な記憶を若い世代に残していこうと思っています。そのためここに兵隊さんへのお礼と供養のため慰霊塔を建て、独立インドのシンボルとしたのです。『自由アジアの栄光』 また、別の激戦地コヒマでも同じく、日本軍は称賛されている。日本軍が去った後にコヒマに群生しはじめた紫の花が「日本兵の花」と名づけられ、そして日本軍兵士によって仕留められた英軍のM3グラント戦車が「勇気のシンボル」として保存されているというのだ。 そして、われわれ日本人が絶対に忘れてはならないのが、大東亜戦争終結後、日本にすべての戦争責任をなすりつけた「復讐(ふくしゅう)劇」の極東軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)で、その裁判そのもの不当性を訴えて日本人被告全員を「無罪」と主張したインド代表のラダ・ビノード・パール判事であろう。 日露戦争の際に19歳だった彼は、そのときの感動を次のように述べている。 同じ有色人種である日本が、北方の強大なる白人帝国主義ロシヤと戦ってついに勝利を得たという報道は、われわれの心をゆさぶった。私たちは、白人の目の前をわざと胸を張って歩いた。先生や同僚とともに、毎日のように旗行列や提灯行列に参加したことを記憶している。私は日本に対する憧憬と、祖国に対する自信を同時に獲得し、わななくような思いに胸がいっぱいであった。私はインドの独立について思いをいたすようになった。田中正明著『パール博士の日本無罪論』慧文社1944年、飢えと病気で次々と倒れ、歩ける者だけが生き残った「インパール作戦」の敗走路=タイ・ミャンマー国境付近(井上朝義氏撮影) つまり、近現代史における日本の軍事行動がインドの独立に大きく寄与し、そしてこうした近現代史の共鳴が、インドを世界屈指の親日国家にしていったのである。【参考文献】・靖国神社「遊就館」・日本会議事業センターDVD『自由アジアの栄光』・ASEANセンター編『アジアから見た大東亜戦争』(展転社)・名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』(展転社)・田中正明著『パール博士の日本無罪論』(慧文社)

  • Thumbnail

    記事

    英軍将兵422名の命を救った帝国海軍中佐 いまも英米で称賛

     カミカゼでもバンザイ突撃でもない、旧敵が真に畏敬し、戦後も尊崇の眼差しを送るのは、自艦乗員よりも多くの敵兵を救助する、前代未聞の英断を下した帝国海軍の武士道だった。作家、ジャーナリストの惠隆之介氏が、いまなお英米で讃えられる工藤俊作海軍中佐の「武士道」についてお届けする。* * * 平成20年(2008年)12月7日、元英国海軍大尉で戦後外交官として活躍したサムエル・フォール卿(当時89歳)は埼玉県川口市、薬林寺境内にある工藤俊作海軍中佐の墓前に車椅子で参拝し、66年9か月ぶりに積年の再会を果たした。卿は大戦中、自分や戦友の命を救ってくれた工藤中佐にお礼を述べたく、戦後、その消息を探し続けて来たが、関係者の支援の結果、ようやく墓所を探しあてたのである。 卿はこの直後、記者会見で、工藤中佐指揮する駆逐艦「雷(いかづち)」に救助され厚遇された思い出を、「豪華客船でクルージングしているようであった」と語った。 フォール卿は心臓病を患っており、来日は心身ともに限界に近かった。これを実現させたのは、何としても存命中に墓参したいという本人の強い意志と、ご家族の支援があったからである。付き添いの娘婿ハリス氏は「我々家族は、工藤中佐が示した武士道を何度も聞かされ、それが家族の文化(Family Culture)を形成している」とさえ語った。 なおこの時は英国海軍を代表して同駐日海軍武官チェルトン大佐が参列、また護衛艦「いかづち」(4代目)艦長以下乗員多数が参列した。まさに敗戦で生じた歴史の断層が修復される瞬間であった。「総員敵溺者救助用意」 第二次大戦中、昭和17年(1942年)3月1日午後2時過ぎ、ジャワ海において日本海軍艦隊と英国東洋艦隊巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」が交戦し両艦とも撃沈された。その後、両艦艦長を含む乗員420余名の一団は約21時間漂流した。当初、「友軍が間もなく救助に来る」と互いに励ましあっていたがその希望も絶たれていた。 彼らの多くは艦から流出した重油と汚物に汚染され一時目が見えなくなった。加えて灼熱の太陽、サメの恐怖等で衰弱し生存の限界に達しつつあった。中には絶望し劇薬を飲んで自殺を図る者さえいた。工藤俊作中佐(昭和10年元日。当時は大尉、軽巡「球磨」水雷長) 翌2日午前10時頃、日本海軍駆逐艦「雷」は単艦で同海域を哨戒航行中、偶然この集団を発見した。工藤艦長は見張りの報告、「左30度、距離8000(8km)、浮遊物多数」の第一報でこの集団を双眼鏡で視認、独断で、「一番砲だけ残し総員敵溺者救助用意」の号令を下令した(上級司令部には事後報告)。 一方、フォール卿は、当時を回想して「日本人は未開で野蛮という先入観を持っていた、間もなく機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と覚悟したという。ところが「雷」マストに救難活動中の国際信号旗が揚げられ救助艇が降ろされた。そして乗員が全力で救助にかかる光景を見て「夢を見ているかと思い、何度も自分の手をつねった」という。「雷」はその後、広大な海域に四散したすべての漂流者を終日かけて救助した。120名しか乗務していない駆逐艦が敵将兵422名を単艦で救助し介抱した。勿論本件は世界海軍史上空前絶後の事である。 工藤艦長は兵に命じ、敵将兵一人一人を両側から支え、服を脱がし、真水で身体を洗浄させた。フォール卿の回想では、「帝国海軍水兵たちは嫌がるそぶりを全く見せずむしろ暖かくケアしてくれた」という。その後、英国海軍将兵に被服や食料が提供され、士官には腰掛も用意された。しばらく休憩した後、艦長は英国海軍士官全員に対し前甲板に集合を命じた。天皇訪英反対論を黙らせた 士官全員が恐る恐る整列を終えると、艦橋から降りて来た工藤艦長は彼らに端正な敬礼をした後、英語で次のスピーチを始めたのだ。「貴官達は勇敢に戦われた。本日は日本帝国海軍の名誉あるゲストである」と。さらに士官室の使用を許可したのである。 一行は翌3日午前6時30分、オランダ病院船「オプテンノート」に移乗した。その際舷門で直立して見送る工藤艦長にフォール卿は挙手の敬礼を行い、工藤は答礼しながら温かな視線を送ったと言う。天皇訪英反対論を黙らせた 平成10年(1998年)4月29日、フォール卿は本件を「英タイムズ紙」に投稿し、「友軍以上の丁重な処遇を受けた」と強調した。 英国には戦後、日本軍の捕虜になった英軍将兵たちが「虐待された」と喧伝し、我が国に賠償を求める動きがあった。またこの年の5月には今上天皇皇后両陛下が訪英される予定であった。そこで元捕虜たちは訪英に反対していたのだ。天皇の謝罪を求める投稿文もフォール卿の投稿文と同時に掲載された。 ところがフォール卿の投稿文によって、これらは悉(ことごと)く生彩を欠いたのである。 一方、工藤艦長の英断は戦後米海軍をも驚嘆させている。米海軍は昭和62年(1987年)、機関誌「プロシーディングス」新年号にフォール卿が「武士道(Chivalry)」と題して工藤艦長を讃えた投稿文を7ページにわたって特集したのである。同誌は世界海軍軍人が購読しており国際的な影響力は大きい。 これから4か月後、東芝機械ココム違反事件が発覚し、我が国は国際社会で孤立した。これは対共産圏輸出統制委員会(ココム)が輸出禁止にしていたスクリュー製造用精密機械を、東芝の子会社がソ連へ不正輸出し、ソ連原子力潜水艦の海中における静粛性を飛躍的に向上させた事件である。このような情勢下で米国の対日貿易赤字は拡大しており、米国民は『安保ただ乗り』と批判し全米で日本製品不買運動が起きていた。 このとき日本海軍と交戦した米海軍の提督たちが帝国海軍の後継である海上自衛隊を称賛し、「同盟軍中、最も高いポテンシャルをもつ組織である」(アーレイ・バーク大将)とまで強調したのである。米国内の対日バッシングはこの結果沈静化した。工藤艦長らの遺産が寄与したものと思われる。●めぐみ りゅうのすけ/1954年生まれ。1978年、防衛大学校管理学専攻コース卒業。1979年、海上自衛隊幹部候補生学校卒、世界一周遠洋航海を経て艦隊勤務。1982年退官。金融機関勤務などを経て、ジャーナリズム活動を開始。『海の武士道 DVD BOOK』(育鵬社)、『敵兵を救助せよ!』(草思社文庫)など著書多数。関連記事■ 9回出撃で9回生きて帰った特攻兵「生還の秘密」■ 大和沈没から生還した男 引き揚げ話に「そっとしておいて」■ 世界の海軍士官の模範となった日本の海軍大尉の名は?■ 乃木希典陸軍大将 敵国ロシアが讃えた「武士道精神」■ バルチック艦隊撃破でトルコ男児の多くが「トーゴー」の名に

  • Thumbnail

    記事

    4370人のユダヤ難民救済で語り継がれる樋口季一郎陸軍中将

     祖国を護るために身を捧げた多くの軍人たちの生き方は、我々に多くのことを語りかけてくる──。 第二次世界大戦開戦直前の1938年3月8日、旧ソ連領オトポールにユダヤ難民が押し寄せた。ナチスの迫害を恐れ、ドイツ東部からポーランドを経て、シベリア鉄道で逃げてきたユダヤ人たちだ。 彼らは満州国への入国を希望したが、満州国は日本とドイツが1936年に結んだ「日独防共協定」を理由に入国ビザの発給を拒否。 しかし、ハルビン特務機関長であった樋口季一郎は「人道上の問題」として受け入れを独断で決定した。「ヒグチ・ルート」によって救済された難民は、現在までに明らかとなった東亜旅行社の資料によると、4370人にものぼる。 多くのユダヤ人を救った樋口季一郎と部下の安江仙弘はイスラエル建国の功労者の名を刻む「ゴールデンブック」に記載され、その名が語り継がれている。樋口季一郎・陸軍中将(樋口隆一氏提供) 建国70周年を迎えた今年6月には、樋口の孫で明治学院大学名誉教授の樋口隆一氏がイスラエルを初訪問した。隆一氏は「祖父、樋口季一郎」と題した講演を行い、「ヒグチ・ルート」で難を逃れたカール・フリードマン氏の息子らと対面した。「今回の訪問で祖父の行為はイスラエル建国にとり非常に大きな意味を持っていたと実感し、大きな感動を覚えました」(樋口名誉教授)●取材・構成/浅野修三(HEW)関連記事■ 日本人男性100人が選ぶ 永遠に語り継がれる「世界の美女」■ 語り継がれる日大の人事異動 常務理事がグラウンド守衛に■ 山口放火殺人 平家の落人伝説が語り継がれていた場所だった■ 橋爪大三郎氏と佐藤優氏 ユダヤ陰謀説を信じる人の特徴分析■ 元陸軍中隊長 沖縄戦で瀕死の部下を介錯させたことを悔やむ

  • Thumbnail

    記事

    安倍首相の真珠湾慰霊は日本が「一流国」になった証である

    に乗り移って、力がみなぎってくるような感覚になりました。 真珠湾のことは知らなかったが、アメリカとの戦争は仕方ないということは、常識としてありました。昭和12年に支那事変(日中戦争)が始まって、首都の南京を占領したが、蒋介石率いる中国政府が奥地に引っ込んで徹底的に抗戦し、どこまで追いかけて行ったらいいのか、いくら兵隊が必要なのか、先の知れない不安が日本人の心の中にありました。背後で蒋介石の腐敗した中国政府を支えているのがアメリカだというのも知られていましたから、これは国運をかけた戦争だ。生きるか死ぬかだ。という気持ちは小学校6年生の子どもにもあったんです。 しかしその後、落ち着いて考えると、これは大変なことになったぞと感じました。私は家の商売の関係で3度中国に行ったことがあり、中国がいかに底が深いか知っていた。広大で人口も多く、簡単な国でないことは分かっていました。 終戦前は中学生でしたが、勤労動員として西大阪にある鉄道省のレールやそれに付随する金具を扱う倉庫で働いていました。いつも標的にされて爆撃を受け、バケツリレーで火を消していました。作業が終わると、鉄橋の上を歩いて10キロほど歩いて家に帰る毎日でした。 家では暗幕を閉めてから電気をつけないと光が漏れてB29に狙われるといわれていたので、真夏でも締め切って寝ていました。空襲警報があると、僕が自分で掘った防空壕に逃げ込むのですが、就寝中に二度も空襲警報があって叩き起こされたときは「死んでもいいからここで寝てる」とそのまま防空壕に入らずにいたこともありました。そんなやけくそのような雰囲気もありました。終戦15年の真珠湾を訪れて 昭和20年8月15日、重大放送があるというので、ともに働いていた中学生らと共に総務課に集まり、昭和天皇が終戦の詔書を読み上げるのを聞いたときは、ただ「戦争が終わったな」というのが第一の感情でした。戦地にいる兵士が戦闘が終わり、敵が撃ってこなくなったのでホッとしたのと同じような感情でしょうか。学校に戻り、私がクラスを代表して中学校の職員室に行き、先生に「これからどうしたらよろしいのですか」と聞いたのですが、先生も分かるはずがなく、「とにかく家に帰りなさい」と言われて、ただ黙々と家に戻りました。家についたら父がいて、「お父さん、戦争が終わったみたいやで」って言ったら、「そうらしいなあ」と答えました。父は病気で召集令状がこなかったので家にいたんです。アリゾナ記念館で海に沈む戦艦アリゾナに花びらをまき、 黙とうする安倍首相(左端)とオバマ米大統領(右から2人目) =12月28日、米ハワイ・真珠湾 終戦から15年後、私はアメリカ、ニューヨークにあるシラキュース大学に留学することになりました。まだ海外渡航の自由がない時代で、現地に行く前に5週間、ハワイ大学のイーストウェストセンターで研修を受け、水洗トイレの使い方から教わりました。 このときに、初めて真珠湾を訪れました。いまあるアリゾナメモリアルのような上等な建物はなく、ただあるのは海だけ。団平船でアリゾナが沈んでいる場所の海上まで行くと、まだぽつんぽつんと、油が浮かんでいました。いろんな考えが浮かびましたが、その中には、人間いつも注意していなければならないということです。日本が奇襲攻撃をした日曜日の朝、米軍の飛行機は一機も空を飛んでいなかった。もし東西南北に分けて3~4機の飛行機に哨戒飛行をやらせていたら日本の真珠湾攻撃は成功しなかった。日本は大敗北で戦争を始めることになって、そうしたら広島も長崎への原爆投下もなかったかもしれない。 毎日新聞の記者時代、真珠湾から40年の節目にハワイを取材したが、現地の人の多くが語っていたのが「Forgive, but never forget」。日本がやったことは許そう、しかし忘れてはならないということでした。 真珠湾攻撃によりアメリカの戦艦6隻中2隻が撃沈、死者は2400人以上に上りましたが、あれだけ軍艦が集まっているのに、空を全然守らないなんて、常識では考えられない。敵はいつどこから攻めてくるかわからない。当時23歳だった通信兵は「あの時点では遅かれ早かれ戦争だと察しはついていたし、戦争なら日本が奇襲をしかけてくることも予想できた。真珠湾が惨憺たる状態になったのは我々の不注意。日本軍がやったことは、まさに我々が何度も演習で準備していたことですから」と語っていました。 真珠湾攻撃については、ああしかやりようはなかったのではないかと思うこともある。山本五十六は連合艦隊司令長官になる前、アメリカに海軍武官として駐在しており、アメリカのことをある程度知っている。アメリカとの戦争に勝つためには西海岸に上陸し、ロサンゼルスやサンフランシスコを平定し、ロッキー山脈を越え、大草原を越え、ミシシッピを渡り、アパラチア山脈を越え、ワシントン、ニューヨークに攻め込んで、敵の大統領がホワイトハウスの前で負けましたというまでやらんといかん。どうしても戦争をするなら、日本人がびっくりするようなことはやれるというようなことを語っていたという。そしてまさにその通りになった。世界中がびっくりした。真珠湾攻撃を一番喜んだチャーチル 真珠湾を守れなかったのはアメリカの大失態でしたが、ルーズベルト大統領はそれを逆転して、日本の裏切りだということを強調しました。ルーズベルトは翌日の両院議員総会で日本への宣戦布告を求める演説で真珠湾攻撃された日を「Infamy(インファミー)」(汚辱、ずるい、狡猾の意味)の日」と表現し、アメリカ議会はたった一人の反対票を残して賛成した。徳岡孝夫さん トランプも言っている「アメリカ第一主義」は当時もありました。アメリカという国は、百年戦争や三十年戦争などを逃れ、新しい国をつくろうと思ってこの地に来たのではないか。あの腐ったヨーロッパの戦いに巻き込まれるなんてバカだと。だから第一次世界大戦でもアメリカは参戦に反対した。 ドイツは毒ガスを使い、タンク(戦車)、そしてツェッペリンという飛行船を作った。昭和15年6月にパリが陥落し、イギリスが危機に瀕したときも、参戦についてアメリカの世論は真っ二つに割れていた。それでもアメリカが参戦してくれたのはなぜか。それはパールハーバーがあったから。アメリカの太平洋艦隊が全滅したことを聞いたとき、一番喜んだのは誰か、それはチャーチルだった。「神様がお救いくださった」とひざまずいて神に祈ったといわれています。 柔道で引込返というのがある。自分が投げられるようなところまで入り、相手を投げる技です。私はアメリカが引込返をやって成功したというところまでは考えていない。修正史観のなかに、チャーチルもルーズベルトも真珠湾攻撃を事前に知っていたというのがある。しかし、ルーズベルトは大統領になるまで海軍次官もやっている。海軍が好きなんですよ。果たして太平洋艦隊を犠牲にしてまで戦争をやるか、という疑問があるんです。 ただし、昭和16年にラニカイ号事件というのがあって、アメリカはラニカイ号という機関銃を撃つ小さいヨットをマニラから西の方へ出すんです。当時イギリス領のマレーシアやオランド領のインドネシアへ行く日本の輸送船がこれを見つけて、沈めるに違いないと。それを口実にして戦争をはじめようという策略だったんです。そこまでやって日本をひっかけようとした。戦争したかったのはラニカイ号事件で明らか アメリカ政府は喉から手がでるほど戦争をしたかった。それにうっかり乗ってしまった日本は奇襲攻撃という戦術では勝ったかもしれないが、戦略では負けた。アメリカと戦うべきではなかった。アリゾナ記念館(奥)を訪問後、演説する安倍晋三首相(中央)。 左はオバマ米大統領=12月28日、米ハワイ州ホノルル市(代表撮影) 修正史観が正しいかどうかは別問題として、アメリカがぼんやりした隙をついて日本が攻撃をした。その攻撃は宣戦布告を渡す前だったというのは事実。それは認めるべきであり、過ちを認めない人間はちょっと粗末だ。国家も同じです。 僕が留学した昭和35年、ニューヨークのエンパイアステートビルの土産物売り場に行ったとき、灰皿や小さなお人形など、土産物の全部が日本製でした。日本は土産物をつくる二流国だったんです。80歳になってから息子と一緒に行って調べさせたら、全部メイドインチャイナだった。 僕は、土産物を作るおばさんたちを知っていた。大阪社会部にいたとき、聞き込みでいろいろ回るのですが、おばさんたちが一軒の家に集まって手仕事をして、リアカーを引いたおっさんが回収にくるんです。「今日は30個もできたか。頑張ったな」なんて会話がある。戦前はそんな商品をアメリカなどに売って鉄を買い、軍艦を作った。そんな取引をして日本は勝てるか。向こうがくず鉄を売ってくれるからなんとか勝ち続けられたが、そんなのは一流国とはいえないし、アメリカに太刀打ちできるわけがなかった。 安倍首相の真珠湾訪問は、現代の動いている歴史には大きな力もなく、変わりもしないかもしれない。しかし、日本はやっぱりすごい国だなってことを考えさせるためには、行くべきだと思った。安倍首相が真珠湾を行くというニュースを読んで、そうか、行くかと。世界中のものを考える人たちがそう思ってくれるだけで十分。行くこと自体に無限の意味があるんですよ。(聞き手・iRONNA編集部、本江希望)とくおか・たかお ジャーナリスト。昭和5年、大阪府生まれ。京大文学部英文科卒業。フルブライト留学生として米シラキュース大大学院で学ぶ。毎日新聞社で編集次長、編集委員を歴任。「サンデー毎日」記者時代、自決直前の三島由紀夫から手紙と檄文(げきぶん)を託される。61年、菊池寛賞受賞。平成9年、『五衰の人 三島由紀夫私記』で新潮学芸賞。著訳書多数。

  • Thumbnail

    テーマ

    真珠湾攻撃75年目の真実

    1941年12月8日、旧日本軍の空母6隻と航空機約350機などからなる機動部隊がハワイ・真珠湾の米軍基地を強襲した。米側は軍艦6隻が撃沈し、約2400人が犠牲となった。なぜ日本は真珠湾攻撃を決断したのか。日米開戦75年目の真実を読み解く。

  • Thumbnail

    記事

    現代の軍学者が分析した真珠湾攻撃「失敗」のナゾ

    た。 戦時であれば放置されるはずのないこうした問題が放置されていたのも、不思議はなかったのだ。いつ大戦争があるのか分からないのでは、装備の最善の更新時期を、米海軍の将官たちとしては自信満々にホワイトハウスや連邦議員たちに対して説明することはできかねた。従って予算も前倒しにはならないのである。 これが日本海軍ならば、「対米開戦は空母『瑞鶴』の準備が整ってから」とか「陸攻用の滑走路造成が南部仏印で概成してから」などと、一方的に有利なスケジュールを決めることができた。しかし米海軍としては、今から何ヵ月後、あるいは何年後に本格戦争に参入することになるのか、はたまたぜんぜんならないのかは、まったく敵国のアクションおよび自国の政府の時局反応次第なので、組織としては予見が不可能であった。 合衆国では「宣戦権」は大統領にはなく、連邦議会にある。その議員たちのほとんどが、ドイツや日本との本格戦争に合衆国が突入することはないであろうとも考えていた。デバステーター艦上攻撃機 1隻の航空母艦に積み込まれる艦攻と艦爆の比率も、それぞれの国家や組織の固有の事情を反映するものであった。 米空母では、攻撃隊の主役は、高性能な急降下爆撃機である。 どうせ敵戦艦を沈める任務など、米海軍の艦上機には求められもしないのだ。艦隊決戦の前哨戦の段階で敵の空母や重巡洋艦を多少痛めつけてやり、味方主力艦隊の目となる索敵任務を全うできればよい――と思われていたので、それならば迅速・便利にその任務を任せられる艦爆を多数揃えるのが「最適解」であった。米空母では艦攻はそもそも定数も少なく抑制されていた(『エンタープライズ』で12機、『レキシントン』で13機)。 これに対して日本の空母艦隊に乗り組んだ航空系幕僚たちにとり、艦爆よりも艦攻の数が少ないなどということは、あってはならなかった。場合によっては、たとい艦爆は積まずとも必ず艦攻だけは積んで行く。あるいは、敵空母の所在が知られてのちは、艦爆は出撃させずとも艦攻だけは絶対に出撃させる……という、暗黙のコンセンサスがあった(南太平洋海戦で顕著)。 開戦時点では、比較的に小ぶりの『蒼龍』級ですら18機、大型の『翔鶴』級や『赤城』『加賀』になると27機もの艦攻を発艦させることができた。その分、艦爆は米空母よりも少なくされていた。「三座水偵」は決して索敵に向いてはいなかった「三座水偵」は決して索敵に向いてはいなかった ところで、複座の艦爆は、後席の偵察員が電信員も兼ねなければならない。電信員は、もし敵戦闘機に追躡されたときには旋回機銃も担当する。 だから艦爆に単機で長駆偵察任務を命ずることには難があって、米海軍では、編隊で偵察させた。 それに比べると、三座の艦攻は、無線の送信や受信を後席の電信員に担当させておき、中席に座る「偵察員」が航法計算に専念できる。無線機もまた高性能な重いものを積んでいる。それゆえ、単機となっても、遠くから母艦の未来位置へ戻ることに不安が少なかった。 そこで日本海軍の空母艦隊ではしばしば低速の艦攻が、空中攻撃隊全体の「陣頭指揮官機」や「嚮導機」(コース案内役)に任じることになった。真珠湾空襲のとき、第一波の空中指揮官だった淵田美津雄中佐(『赤城』飛行隊長)も、「九七艦攻」の偵察員席に座ったのである。 日本の空母艦隊には巡洋艦が随伴した。その巡洋艦からは、「零式水上偵察機」、通称「三座水偵」といわれた偵察専用の艦載機が、火薬式カタパルトで射出されて、八方を手分けして索敵した。 プラモデルを作ってみるとよくわかるのだが、この三座水偵は、航続性能をことのほかに重視していたためか、主翼面積がすこぶる大。それが3人の搭乗員の下方視界をわざと塞いでしまうようなレイアウトになっていて、まんなかの偵察席に至っては、真下など全く見えもしないのだった。水深約10メートルに横たわる零式水上偵察機=2014年12月、パラオ・アラカベサン島沖(松本健吾撮影) 三座水偵は、かさばったフロート(浮舟)をぶらさげたまま飛び続けねばならない。空気抵抗が大きくて高速ダッシュはできない。したがって、もしも敵戦闘機に不意に近距離で遭遇して喰いつかれでもしたら、雲中に遁入しない限りはまず生きて戻れるチャンスはなかった。 このことは現実に何を結果したか? 索敵飛行中、靄や雲のために眼下の視程が悪いとき、ほんらいならば海面近くまで降りて低く飛ぶべきところでも、三座水偵の乗員たちは、敵戦闘機の脅威からも悪天候の乱気流からもより安全となる「雲上飛行」で済ませてしまおうという誘惑に駆られる。その場合、偶然に雲の切れ間から敵空母を一瞬見通せる位置を航過するという僥倖に恵まれたとしても、下方視界の不良なデザインのおかげで、その幸運な機会はフイにされる確率が高いであろう。 戦争では、敵の所在がそもそも分からないでは、いかなる名作戦参謀でも、攻撃計画も防禦計画も立てようがない。海軍航空本部は、三座水偵の下方視界についてメーカーに「ダメ出し」をしておくべきだったのに、その致命的な欠陥を看過した。 もしもやむをえない事情で、下方視野のすぐれた水偵は手に入らないと知ったならば、艦攻や艦爆をもっと「艦偵」として警戒や索敵任務に多用する着眼を、運用者側が持つべきでもあったろう。 しかし艦攻・艦爆の発艦や収容には、航空母艦の広い飛行甲板をいちいち空けねばならない。短い滑走距離でも発艦ができたのは、零式艦上戦闘機「零戦」であった。 ならば、「零戦」を複座化して後席に偵察員(航法士)を乗せ、「艦偵」や「空戦指揮機」とすることはできなかったのだろうか? 零戦は単座であっても長距離対地偵察の役に立ったことについては、生き残ったエースパイロットの坂井三郎氏の証言が残っている。 1943年になって、内地では正式な複座の練習機型が作られている。武装はそのままで操縦系統だけが二重だから、これは鈍重だったはずだ。それでも後方教官席からの下方視界が佳良だったであろうことは写真からみてとれる。 南方最前線のラバウル基地では、1944年から45年にかけて計4機の零戦を複座に改造し、偵察と連絡に使ったという。その武装をどうしたのかは詳らかにしない。しかし左右主翼の20ミリ機銃とその弾薬を下ろしてしまえば、偵察員(兼電信員)1人分の重さは優に相殺してお釣りが来た。機首の7.7ミリ機銃も2梃のうち左側の1梃を下ろしてしまえば、その分、重量級の無線機や航法装置も積み込めただろう。 単発戦闘機は空中では敏捷さを頼りに敵戦闘機の攻撃を振り切れるので、後席に旋回機銃などを取り付ける必要はない。付けても高G機動中には取り回しなどできず、たんに死重と空気抵抗を増すだけの話なのだ。「複座零戦」があればはいかに重宝したか「複座零戦」があればいかに重宝したか それはともあれ、零戦の複座改造機は、南洋の孤島基地で重宝したからこそ4機もこしらえられた。これは対米開戦前から考慮されるべき着眼だった。 米海軍の高性能を誇った艦偵ドーントレスの3割増しの奥行きの海面を、この複座型の零戦ならば、単機で捜索できたであろう。途中で敵戦闘機に会っても、逃げられた。発艦も収容も、単座艦戦並に簡便である。したがって随時・随意に飛ばし続けるのに、不都合がない。今でいうISR(諜報・監視・偵察)の利便が、機動部隊司令部の航空参謀には、加えられただろう。空母艦隊同士の洋上の遭遇戦で日本側が不覚を取ることも、まずなくなったはずである。 八丈島の海軍簡易飛行場からも、「複座零戦」ならば常続的に哨戒飛行に送り出せたはずだ。そんな態勢が整っていたなら、1942年のドゥーリトル隊の東京初空襲は、最初から企画され得なかったろう。 米海軍が偵察任務を艦爆に任せ続ける限り、「複座零戦」によるISRが、日本側だけの特権的なアドバンテージになったかもしれない。米国製の艦爆の航続距離は、どうしても零戦よりは短いからだ。 さすがに『エセックス』級空母が就役した後となれば、すべての米艦上機の最大離陸重量が増えたので、「複座零戦」の優位も消失しただろう。その頃には米艦上機はレーダーを装置できるようにも進化していた。 それでも「機上レーダー」の間に合わなかった日本海軍としては、偵察機を「目視による早期警戒機」として運用することに価値はあった。四国松山で「紫電改」による本土防空戦を指揮した源田實は、艦上偵察機「彩雲」(1944年制式)を早期警戒機として役立てている。 1942年時点で「複座零戦」が考えられていれば、戦闘機隊による母艦上空での空戦を、兵学校出の偵察員が無線によって高所から、指揮・統制することもできただろう。なまじいに20ミリ機銃などが付いていなければ、敵の雷撃機に吸引されて低空に下がりすぎてしまうようなこともない。終始、戦場を俯瞰しつつ、肉眼のレーダーとなって警戒飛行を続けられたのである。 南雲艦隊が真珠湾を空襲していた当日、米空母『エンタープライズ』は、オアフ島西370キロを東進中だった。米政府は日本海軍の動静兆候分析から、おそらくフィリピンに手をかけると同時にウェーク島(ハワイ諸島からは遥か西南西にあり)を牽制攻撃するのではないかと予測し、『エンタープライズ』を使って守備隊(海兵隊)のために「F4Fワイルドキャット」戦闘機を送り届けていたのだ。12月2日にその輸送任務を了えた『エンタープライズ』は、真珠湾へ還ろうとしている途中だった。 また、もう1隻の空母『レキシントン』は、ハワイ諸島の西北西にあるミッドウェー島の守備隊(やはり海兵隊)に、これまた軍用機を送り届けるため、12月5日に真珠湾を出港して西進。空襲当日は、ミッドウェー島の南東780キロ付近に在った。 両艦ともに「開戦」の急報に接すると、索敵機を四方に飛ばしながら日本艦隊を捜索した。だが、『エンタープライズ』機が10日に『伊170』潜水艦を発見・撃沈できた他には得たものはなく、13日に真珠湾に戻った。米空母エンタープライズ ウェーク島は、真珠湾空襲と同日に日本海軍の陸攻隊によって初空襲されたものの、11日には海兵隊航空隊の「F4F」戦闘機が駆逐艦『如月』を撃沈するなど粘りを見せる。米海軍は、ハワイのキンメル司令部が責任追及騒ぎで麻痺状態に陥ったため、西海岸サンディエゴ軍港に在った空母『サラトガ』にウェーク島救援を命ずるのが遅れた。21日には、呉軍港に戻る途次の空母『蒼龍』『飛龍』から艦上機が発進して在ウェーク島の航空戦力を一掃してしまい、翌日に同島は陥落する。これで万事休したため『サラトガ』もサンディエゴに向けて反転した。 ウェーク島へ分遣されなかった南雲艦隊の4空母の呉帰投は23日から24日にかけてである。 日本海軍は、「開戦劈頭に敵の中枢指揮系統に打撃を与えて全軍を麻痺せしめる」などいう高等戦法を企図したわけではなかった。しかるに米国の文民統制システムが偶然にも、ハワイを中心とする米太平洋艦隊を「ショック硬直状態」に陥れたのが、この19日間であった。 1941年12月時点に太平洋に所在した米海軍の正規空母3隻と南雲艦隊主力の航跡は交わっておらず、米側の「偵察爆撃機」の航続距離も短かったことから、ハワイ空襲直後に空母同士の洋上遭遇戦が生起した可能性は、史実では、ほぼ無い(カタリナ飛行艇か米潜が南雲艦隊を発見した場合は除く)。 だがもし仮に、太平洋艦隊司令部の麻痺が起きなかったとするなら、米海軍の上記3空母のどれかと南雲艦隊との間で、海戦が発生した可能性はあった。 その場合、「艦攻重視」で索敵用航空機の非力な南雲艦隊は、「艦爆重視」で索敵力には遺憾が無かった米空母から、痛撃を喰らった蓋然性があるだろう。着手できなかった「爆戦」構想着手されなかった「爆戦」構想 今日、対空母攻撃の考え方として、「ミッション・キル」と「プラットフォーム・キル」がある。 後者は、敵空母そのものの撃沈を狙う発想だ。対米戦中の日本海軍はこの思想を蝉脱することができなかったために、敗北多くして勝利は少なかったと評し得る。 前者は、敵空母の撃沈などは最初から狙わない。 そもそも空母の主機能とは何だ? 飛行機の運用だ。 ならば、空母の飛行甲板その他を小破させ、当分、艦上機を飛ばしたり収容したりできないようにしてやるだけで、その空母はその後の修理に要する何週間か何ヶ月間は「戦力外」のドンガラに過ぎなくなるのではないか。 日本海軍の将官でこの計算に到達できた男は一人しかいなかった。大西瀧治郎である。大西瀧治郎・海軍中将 彼はミッドウェー海戦後に「爆戦」構想を唱えた。零戦に軽量小型の爆弾複数を吊下させる。その「爆戦」が、敵戦闘機の防禦スクリーンを敏捷に擦り抜けながら、緩降下高速爆撃法によって敵空母の甲板に投網をかけるように投弾すれば「ミッション・キル」は成就するはずであった。 ところが明治時代の「日本海海戦」が昭和になっても理想視され、「敵主力艦は必ず沈めねばならぬ」という宗教じみた強迫観念にとらわれていた旧日本海軍には、組織としてこの合理主義を受け入れる余地が無かった。 やむなく大西が道筋を付けるのが、無理に大きな爆弾を抱えさせた鈍重な「特攻機」による自殺攻撃法である。 陸軍統制派に日本国を全体主義化(=ナチ化またはソ連化)させないためには、海軍は「日本海海戦」をいつでも再現できるのだと国民および陸軍に信じさせておく必要があった。さもないと国内権力(物と人の動員権力)をすっかり陸軍省に明け渡すしかなくなり、マルクス主義かぶれでアンチ・エスタブリッシュメントの統制派から皇室を守る勢力が消えることになるのだ。 それゆえに組織としての日本海軍はあくまで、国民を沸き立たせる「プラットフォーム・キル」を要求した。組織人の大西は「合理的な解」を考えてそれに応えねばならなかった。 「爆戦」の合理性にもし対米開戦前に気付くことができていたなら、日本海軍は、商船や戦艦を改装した低速空母や、軽巡を改造した小型空母から、索敵&嚮導管制機としての「複座零戦」と、直掩用の単座零戦と、「爆戦」任務の単座零戦という、「オール・ゼロ」攻撃隊を運用することができたであろう。 使い捨てのアシスト・ロケットを装着すれば、低速母艦からでも「爆戦」発艦は可能だった。大西は、みずからがシナ事変中に主宰した「空威〔エアフォース/エアパワー〕研究会」の中でロケット爆弾(四号爆弾)を試作させていたから、ロケットについても素人ではなかった。 内地の航空機量産も、零戦だけに集中すればよくなるので合理化が進んだだろう。搭乗員の短期大量養成も、機種が整理されることで、はかどったはずである。緩降下爆撃法は、急降下爆撃や、高々度水平爆撃よりも、格段に習熟は容易で、神技的なスキルなど必要とはしなかったからだ。操縦素養の劣る者は「爆戦」要員とし、操縦天性ある者は「直掩」機要員とし、頭脳怜悧な者は「嚮導・管制」機要員に振り分ければよかった。特攻は、たぶん必要にはならなかったであろう。問うに落ちず語るに落ちた外務省問うに落ちず語るに落ちた外務省 真珠湾奇襲によって対米開戦した1941年末の日本国の流儀は「騙まし討ち」であった。 当時のF・D・ローズヴェルト大統領がおっしゃる通りの、近代人ならば恥ずるべき、卑劣なスニーク・アタックに他ならない。 よりによって日本外務省がフルに共謀・加担しての、近代主義を逸脱した開戦奇襲だったことにより、日本の戦後の立場は、すこぶるまずくなった。 国交断絶や戦争状態の通告をするのに、わざわざ敵国首都の大使館をわずらわす必要などなかった。近代外交ルールの趣旨(民間商業や中立交易商人を開戦に巻き込まないこと)としてタイミングが重要なので、やむをえなければそれは東京からの「短波ラジオ放送」でよかったのだ。もちろん東京の外務省に駐日米国大使を呼びつけて口頭で知らせたって構わない。 日本外務省がその方法を選ばず、わざわざ最も遅延を生ずる可能性が高い手順とさせた理由は、あまり通告が順調に行ってしまうと、もしや海軍によるハワイ方面の騙まし討ちに障礙が生じはせぬかと気を回したためであろう。日本外務省は、開戦が騙し討ちとなってもいいのだと肚をくくって海軍に協力した。 日本時間の12月8日午前7時のNHKラジオニュースの原稿は「戦闘状態に入れり」という表現を用いている。これは外務省が、このたびの対米戦争が、日本が批准書を提出している「1928年のパリ不戦条約」の主旨には違背する「侵略戦争」に該当することを明瞭に認識していたという傍証である。 ワシントンでの野村大使による日米交渉打ち切り通知文書の手交が、実際の攻撃開始よりも遅かったことを、この時点では東京の外務省は知らない。つまり、それが間に合っていたとしても、日本からの計画的開戦は「侵略戦争」になることを、外務省は理解していた。 毒を喰らわば皿までという決心で、彼らは通告が遅くなることはあっても決して早まることはないようにも計らったのだろう。そのうえに交渉打ち切り通知書の文言も、国際慣習法が求める「国交断絶の通知」とは必ずしも解釈できない余地を残すという、姑息な細工付きであった。日本軍の真珠湾攻撃をうけ、炎上沈没する米戦艦アリゾナ(AP) もし、第一次大戦以後の国際法で認められていた「自衛戦争」(セルフディフェンス)を内外に向け主張したいのならば、「米英軍が攻撃してきたので、もっかわが軍が反撃中である」と強弁するのが筋だった。しかし日本外務省にはそこまでの面の皮の厚さはなかった(ヒトラーにはあった。対ポーランド開戦と対ソ開戦の時。詳しくは拙著『「日本国憲法」廃棄論』を見るべし)。 ご丁寧にも、続いて8日午前11時40分には、短文ながらもその文章は事前に政府首脳によって練りに練られたであろうと誰でもわかる「宣戦の詔勅」が、NHKのラジオ・アナウンサーにより読み上げられる。 もし国際法上正当な「セルフディフェンス」だったならば、こんな整った詔勅をこんなに早く声明できるはずがないではないか。 わが日本外務省は問うに落ちずに語るに落ちて、まさしく計画的に日本から米英に侵略戦争を仕掛けましたよと天下に告白してしまったも同然だった。 天皇の「無答責」性を保つためには、日本政府は「宣戦の詔勅」など絶対に出させてはいけなかった。戦争は政府のリーダーシップであるという外見を保持すべきであった。これは外務省のコミットした大逆だった。 この詔勅中にも使われた「自存自衛」という曖昧な日本語を錦の御旗のようにして勝手な軍事外交政策を続けた報いとして、また外務省がこの詔勅の「自衛」をぬけぬけと「セルフディフェンス」と英訳して海外に通牒した報いとして、敗戦直後の日本政府には、「この国は国際条約をこれから遵守するだろう」と近隣諸国に思わせる信用が全くなくなってしまった。それがひいては、新憲法第9条第2項の後段に「国の交戦権は、これを認めない」などという異常きわまる宣言を追加させられる禍機をも招き寄せたのである。 もっと詳しくは拙著『「日本国憲法」廃棄論』に譲るが、「真珠湾攻撃は日本の侵略戦争でした」と日本の外務省が認めない限り、日本人の手による「9条」の改訂は、とても難しいだろうと私は予言しておく。 日本外務省は、ダーティだっただけでなく、粗忽であった。さりながら、潔く着るべき汚名を戦後にうやむやにすることにはほとんど組織の全霊を傾注したから、いまだに多くの日本人は、真珠湾攻撃が「日本による侵略」だったことをまるで理解ができないのである。「野村大使による通告があと少し早ければ騙し討ちではなく、何の問題もなかった」という人が、あなたの周囲にもいるかもしれない。 日米交渉自体が、アメリカを騙す周到なトリックだったとローズヴェルトは指弾したのだ。その外交交渉中にはいささかの警告も発しないでいて、ある日曜日の朝、一足飛びに日本側から一斉に集中攻撃を発起すれれば、日本が侵略者だと客観的に判定されることになるのは、情・理ともに必然であった。 総理大臣クラスの政治家ですら、近代の理解(なかんずくセルフディフェンスの理解)がおぼつかぬ点では今もって12歳の少年レベルから遠くないことがある。 わが外務省の役人たちが組織の過去の無謬性にこだわりぬくものだから、日本国民とアメリカ国民の戦後の相互感情の沈静化には、2世代以上の時間がかかってしまった。 しかし今日、海上自衛隊は事実上、米海軍と一体であるし、それに続いて、航空自衛隊も、F-35戦闘機の導入によって、急速に米空軍との一体化に近づこうとしている。日本人の誰も真珠湾攻撃を反省してはいないのに、よくここまで関係が修繕されたものだ。じつに「地政学」は偉大だと思う。真珠湾の過去が精算されるとき真珠湾の過去が精算されるとき 米国の戦前の地政学者ニコラス・スパイクマン(1893~1943)は、真珠湾攻撃の余煙がまだくすぶっていた12月31日に、〈日本の敗戦はもはや必至である。が、日本の降伏後に極東で強大化するであろう蒋介石のシナに日本列島を併呑させてはならない。アメリカは敗戦後の日本と軍事同盟を結んでシナから日本を守り、日本に航空基地を置き続けることによって、極東でのユーラシア勢力の牽制に努めねばならない〉と説いた。その場で地理学会は日独憎しの感情から猛反発をしたものの、歴代米政府の要路は以後この指針に完全に服している。 2016年にドナルド・トランプ氏が登場するまで、マハン、マッキンダー、スパイクマンと続くアングロサクソンの主流地政学の要点を承知していないアメリカ大統領は、おそらく一人もいなかった。 トランプ氏は、第二次大戦後の「日米安保」の出発点理論であるスパイクマンの本を読んでいなかった最初の戦後大統領となるのであろう。「地政学に無知」ということと「ロシアに甘い」ということは表裏一体の現象なので、トランプ新大統領はいつかロシアから煮え湯を呑まされずにはいないだろう。 もちろん国務省は今あわててトランプ氏に、米国の地政学の要点を「ご進講」している最中であろう。 けれども大統領選挙中、あれだけ何度も〈韓国や日本が米国に十分な防衛費を支払わないのならば、駐留米軍は引き揚げる〉と示唆してきたトランプ氏の「損得勘定」も堅固なのだろうと想像できる。 ここは日本外務省が過去の罪滅ぼしをするチャンスである。 航空自衛隊内に「上級練習戦闘機隊」を新編し、そのパイロットたち(新人ではなく中堅)を各飛行隊から抽出して、アラスカ州のエレメンドルフ空軍基地(正確には陸軍のフォート・リチャードソンとの統合基地)の一画に常駐せしめ、米空軍のお下がりの「F-15C」戦闘機を必要なだけ有料でレンタルして、日々、訓練飛行をさせる。そのような協定を、外務省はトランプ政権に提案できるだろう。 常駐するのであるから、地代も払うし、土木建設工事も地元企業に発注する。常駐のパイロットと整備兵、そしてその家族たちはアンカレジ市で消費するので、地元経済は潤い、米国には税金(消費税)も入る。その総額を示せば、トランプ氏はきっとニッコリするだろう。 この新協定によって、わが航空自衛隊は戦力が2倍になったのと同じことになる。なぜなら、もし中共軍の卑劣な騙まし討ち奇襲により沖縄や九州の空自基地が壊滅させられてしまったとしても、すぐにこの「上級練習戦闘機隊」が、レンタルの戦闘機に乗って千歳へ飛ぶことで、たちまちに空自の穴は埋まってしまうからである。 エレメンドルフの「上級練習戦闘機隊」は、米支有事のさいには、中共海軍が米本土に向けて沖合いから発射してくるかもしれない長射程巡航ミサイルを洋上で迎撃する活動を分担できる(米空軍のF-15Cにはその能力があるので十分可能)。 すなわち日米安保は「双務的」となる。ここでもトランプ氏の大不満は解消に近づく。 トランプ氏は想像したくないだろうが、米露有事もかならずあるだろう。最前線のエレメンドルフ基地が露軍機の空襲の矢面に立ったときに、わが空自パイロットたちは、アラスカとカナダ上空の防衛をも分担できるのである。嘉手納基地のエプロンに並ぶ米空軍のF15戦闘機。左手前(尾翼にAKマーク)がアラスカ州エレメンドルフ基地所属のF-15D、後方が嘉手納基地所属のF-15C(尾翼がZZ) トランプ氏はアラスカ沿岸の海底油田の採掘を加速させたいに違いない。その原油はパイプラインで北米の陸上を縦断させるより、タンカーで日本に売った方が早い。そのタンカーを護衛するため、いずれは海自の哨戒機がエレメンドルフに出張する日も来るであろう。 なおまた、マラッカ海峡が機雷で封鎖された場合に、新パナマ運河を抜けて西周りで日本向けに原油を運ぶタンカーも、大圏コース(最短航路)はアリューシャン列島沿いとなるので、エレメンドルフからエアカバーするのが最も合理的だ。わが「上級練習戦闘機隊」は、哨戒機部隊とともに、日本のエネルギー安全保障を担保することになるだろう。 ちなみに言えば、戦時中に海軍陸攻隊の基地があった北海道の美幌から計って、アンカレジまでは4630キロ。双発の「一式陸上攻撃機」を兵装無しで飛ばしたときの片道航続距離は5880キロであったから、「一式陸攻」は片道の旅でよければアンカレジまで行けたことになる。アラスカは、ハワイよりも近いのである。 地球上の2地点間の最短距離を教えてくれるウェブページ内のソフトで調べてみよう。東京~ホノルル間は6230キロ、東京~アンカレジ間は5550キロで、じつにアラスカこそは戦後の日本本土防衛のバックアップ拠点であったことがよくわかると思う。 朝鮮戦争が勃発して米本土から急遽、陸軍師団を空輸しなければならなかったときにも、大圏コースで千歳まで飛来し、広大な千歳キャンプにいったん兵員たちが屯集したものだった。 今日、わが航空自衛隊のF-15戦闘機は、米空軍が主宰する大規模で本格的な年次演習に参加するために、空中給油を途中で受けながら、エレメンドルフまではるばる飛んで行くことが恒例化している。 「上級練習戦闘機隊」のエレメンドルフ常駐は、決して夢物語ではない。真珠湾の過去は、そのとき、清算される。 真の「日米同盟」の新時代が、そこから始まるであろう。

  • Thumbnail

    記事

    なぜ日本はあのとき「真珠湾攻撃」を決断したのか

    はスターリンがヒトラーの東西挟撃戦略を破るために前年12月の西安事件で捕らえた蒋介石を使って起こした戦争である。日本は早期講和を求めて日露戦争当時のように米国に仲介を要請したが、ルーズベルトは仲介を断っただけでなく逆に莫大な援蒋軍事援助を開始し、ソ連と一緒になって日本を攻撃したのである。まさに火に油を注ぐ行為であった。 蒋介石は米ソの援助無しでは一日も戦争を続けることが出来なかったから支那事変は実質米ソの対日代理戦争であった。この結果戦争は泥沼化し日本軍は支那大陸に長期間足止めされたのである。 それではなぜルーズベルトは日本を攻撃したのか。これは19世紀の米国の太平洋政策にさかのぼる。すなわち1890年代に西部開拓を了えた米国は太平洋に進出し、ハワイ、フィリピンを征服し次の目標として支那満州への進出を望んだ。それが1899年のジョン・ヘイ国務長官の支那門戸開放機会均等宣言である。 日露戦争では米国はロシアの満洲全土占領を阻むために日本に講和を仲介したが日本政府が鉄道王ハリマンの南満州鉄道買収を拒むと、米国は対日友好から一転反日となり、日系人への迫害が始まった。そして1931年の満州事変で日本が翌年1月のスティムソン国務長官の満洲原状回復要求を拒否すると日本打倒を決めたと思われる。満洲事変こそが日米戦争に到る対立の引き金になったのである。 この結果、1930年代の米国社会は政府の反日姿勢に加えソ連の煽動もあり反日一色となった。1934年米国を訪れた吉田茂は駐英大使の資格で行ったのにひどい待遇を受けたと記している。これに対し元外交官で極東専門家のマクマレーは1935年国務省極東部長ホーンベックの要請を受け極東政策について意見を具申した。「皮算用」に終わった米国の極東戦略 それは日本を滅ぼしてもソ連が南下する、蒋介石も米国を利用するだけだから支那満洲は米国の自由にならない、日米戦は双方に甚大な被害を出すだけだから絶対に避けるべき、米国は極東に過度に介入すべきではない、という実に先見性のあるものであり駐日グルー大使も強く支持したがホーンベックは採用しなかった。 独ソ戦を控えたソ連のスターリンの戦略は、日本の軍事力を北上させないことであり、その第一弾が支那事変工作、第二弾が米国の太平洋政策を利用した日米戦争工作であったのである。ヨシフ・スターリン 支那事変を続けるルーズベルトはさらに日本を追い詰めてゆく。1939年には長年の日米通商航海条約を一方的に破棄し、1941年には米陸軍航空部隊を蒋介石の義勇軍(フライングタイガー)に偽装して投入する。明らかな宣戦布告なき軍事攻撃である。しかし日本は日米交渉による平和解決を求めて隠忍自重した。 さらに米国は6月に独ソ戦が始まるとソ連支援のため中立法の解除が必要となり、自衛名目を作るために対日挑発行為を加速した。いわゆる裏口からの参戦である。7月には米国は支那事変に苦しむ日本の在米資産を凍結し、8月には戦争遂行に不可欠な石油、鉄クズ輸出を禁止した。 それでも日本は野村吉三郎を特使として送り必死に日米和解を求め近衛首相は首脳会談まで提案した。しかし米国は頑なに拒否し、その総仕上げが11月27日の支那満州からの全面撤退を要求するハルノートとなったのである。 ちなみにこのハルノートはスターリンが原案を作りNKVD工作員パブロフがワシントンに持参してソ連スパイの財務省次官のハリー・ホワイトに伝え、それが財務長官、大統領経由でハル長官から発出されたものという。ソ連は日米戦が始まれば日本の軍事力は確実に南に向かうので、安心して対独西部戦線に専念できる。発出されたハルノートを見て、スターリンはおおむね満足したという。こうして日本はソ連と米国の謀略により対米戦以外避けることのできない絶体絶命の罠に陥ちていったのである。 日米戦の開戦理由の研究は今でも両国に東京裁判のしばりが残っているようだ。「真珠湾」の著者、歴史家モーゲンスタインは米国では日米開戦前の経緯を調べることは喜ばれないと述べている。 しかし、「米国の鏡日本」を著したヘレン・ミアーズ女史は戦前の外交記録を調べれば米国が日本を圧迫し日本が必死に戦争を回避しようとしたことは明らか、と記している。米国の歴史専門家は真珠湾攻撃が日本の自衛反撃であることを知っているのだ。 その後米国は原爆まで落として1945年に日本を滅ぼしたが、米ソは対立し1949年には支那満洲が共産化し、米国は営々と築いてきた支那の全拠点から追い出されてしまう。まさに米国の極東構想は「捕らぬ狸の皮算用」に終わったのである。 そこで1951年にマッカーサーは米議会で、支那の喪失と共産化は米国太平洋政策百年の最大の失敗と総括した。その後米国は日本防衛の国防費を節減すべく、日本の再独立と再軍備に向けて対日政策を180度転換して行くのである。

  • Thumbnail

    記事

    「ミス」から始まった真珠湾攻撃 九七艦攻隊員が語った奇襲の真相

    井上和彦(ジャーナリスト) 昭和16年12月8日、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」の6隻の空母から飛び立った350機の攻撃隊は、撃墜され未帰還となった29機と引き換えに、米太平洋艦隊の主力戦艦8隻を撃沈破した他、軽巡洋艦・駆逐艦・水上機母艦など10隻を撃沈破し、さらに300機以上もの敵機を撃破した。1941年12月7日、ハワイの真珠湾で日本軍の奇襲を受け炎上する米戦艦ウェストバージニア(米国防省提供) 真珠湾攻撃は日本海軍のワンサイドゲームであった。 だが、この真珠湾攻撃も実は、奇襲作戦の成否を左右しかねない「ミス」から始まっていたのだ。 真珠湾攻撃は、一般に「真珠湾奇襲攻撃」とも言われる。その「奇襲」とは、我が方の攻撃が敵に察知されていない状況下、つまり敵戦闘機が迎撃に上がっていない状態での攻撃をいう。真珠湾攻撃では、飛行総隊長・淵田美津雄中佐の指揮官機からの信号弾1発が「奇襲」の合図であった。 その場合、先ず魚雷を抱いた雷撃隊が先行して敵艦に魚雷攻撃を仕掛け、これに続いて水平爆撃隊と急降下爆撃機が、敵艦や地上目標めがけて上空から爆弾を投下する手順となっていた。 ところが我が方の攻撃が敵に察知され、敵戦闘機が待ち構えている状態での攻撃は「強襲」となる。 この場合、指揮官機が信号弾を2発発射し、奇襲のときとは逆に、戦闘機隊と急降下爆撃隊が先行して敵機を追い払い、対空陣地などを制圧した後に、雷撃隊および水平爆撃隊がこれに後続する手はずとなっていた。 空母「加賀」の雷撃隊員として真珠湾攻撃に参加した九七式艦上攻撃機の偵察員だった前田武氏はこう証言する。「飛行総隊長の淵田中佐機からまず1発の信号弾が上がりましたので、我々艦上攻撃機隊はこれを確認して突進を始めたんですが、援護する役目の戦闘機隊が動こうとしなかったんです。そこで、淵田中佐は、戦闘機隊が1発目の信号弾が見えなかったものと判断して2発目の信号弾を撃ってしまったんです。これが失敗でした。今度は、艦上爆撃隊が『信号弾2発』を確認して『強襲』と勘違いしてしまったんです」 こうして九七式艦上攻撃機の魚雷攻撃の前に、爆弾を積んだ九九式艦上爆撃機の艦上攻撃隊が、戦闘機隊と共にフォード島の敵航空基地などに対地攻撃を開始したのであった。攻撃を受けた敵の地上施設や航空機は次々と撃破され、黒煙を噴き上げて炎上したのだった。天が味方してくれた雷撃隊 前田氏はいう。「フォード島には飛行機のほかにガソリンタンクもある。我々艦上攻撃隊が現場にたどり着いたときは、もうすでに真っ黒な煙が上がっていました。この黒煙がもし、我々が攻撃を仕掛ける海側に流れていれば、魚雷攻撃は不可能だったでしょう」 前田氏は続ける。「水深の浅い真珠湾内の敵艦を魚雷で攻撃するには、海面すれすれの高度10メートルで飛び、この超低高度から、深く潜らないように工夫された魚雷を慎重に投下しなければならないんです。ところがもしフォード島の黒煙が海側に流れて、海面を覆うようなことがあれば魚雷攻撃はできなかったかもしれません。ところがこの日は運よく、風が味方してくれて、黒煙が海側に来ることがなく、目標が鮮明に見えたのです」 まさに天が味方してくれたのである。雷撃隊は黒煙に邪魔されることなく敵戦艦群に肉薄し次々と魚雷を命中させていったのだった。 真珠湾の水深はわずか12メートルと浅く、したがって魚雷攻撃には不向きであった。通常の魚雷は、着水後に60メートルほど沈下するため海底に激突してしまう。そこで真珠湾攻撃に使われた魚雷は、特殊な木製のフィンと安定板を取り付けて沈下を防ぎ、超低高度で投下することで水深の浅い真珠湾でも使えるように工夫されていたのだった。だがその特殊改良された魚雷はわずかに40本しか用意されていなかったため、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の雷撃隊に10本ずつ配られていた。そのため各艦の雷撃隊は、この貴重な魚雷を敵艦に命中させるため、鹿児島での厳しい訓練を実施し、その雷撃技術を磨いて実戦に挑んだのである。 実際に雷撃隊が魚雷を投下したパール・ハーバーに立てば、よくぞこのような狭い場所で正確な魚雷攻撃をしたものだと感服させられる。対岸からフォード島に係留された戦艦群までの距離があまりにも短いため、この水路のような場所に魚雷を、しかも超低空で投下するのは至難の業だ。だが日本海軍は、そうした離れ業も、厳しい訓練を積んで不可能を可能にしたのだった。日本人の英知が生んだ大勝利 前田氏は、この特殊改良された魚雷を投下したときの様子を語ってくれた。「戦艦『アリゾナ』を見たら、外側横に修理用の小さな艦が横付けしていたので、雷撃しても魚雷がその小さな艦に当たるのではないかということで、『アリゾナ』を標的から外したんです。そして次に狙ったのが、籠マストが象徴的なカリフォルニア型の戦艦『ウエストバージニア』でした。まず我々二番機に先行していた一番機の魚雷が見事に『ウエストバージニア』のど真ん中に命中して、バァッ!と水柱が上がったんです。その直後に私の機が速度約140ノット、高度10メートルで突っ込んで雷撃したわけです。魚雷は艦橋下部に命中! 私の機が『ウエストバージニア』の上空を航過した後に大音響とともに大きな水柱が上がったのです。私は偵察員として戦果を確認する必要がありましたから、その一部始終を目に焼き付けました。あの光景はいまも忘れられません」1941年12月7日、ハワイの真珠湾で日本軍の攻撃を受ける米戦艦ネバダ(左)、アリゾナ(中央)(ロイター) そして雷撃隊に負けず劣らず、800キロ爆弾を搭載した九七式艦上攻撃機の「水平爆撃隊」の活躍もまた目覚ましかった。 水平爆撃隊は、貫徹力を増した800キロ爆弾を搭載した九七式艦上攻撃機49機が投入されており、この攻撃がまた米戦艦群に大打撃を与えたのである。 この800キロ爆弾は、戦艦「長門」が搭載していた41センチ主砲弾を航空機搭載用爆弾に改良したもので、その破壊力は凄まじかった。そもそも敵戦艦の分厚い装甲を撃ち抜ける戦艦の徹甲弾なのだから、上空から投下されて直撃すれば無傷ではいられない。この爆弾は、甲板を突き破って艦内で爆発する仕組みになっていたのだった。 なるほど戦艦「アリゾナ」には魚雷と同時に800キロ爆弾4発が命中し大爆発を起こして後に沈没したのだった。 真珠湾攻撃は、ミスで始まった奇襲攻撃であったが、厳しい訓練を積み重ねてきたパイロットの高い練度と、そして日本人の英知が生んだ大勝利であったといえよう。

  • Thumbnail

    記事

    中国は山本五十六の苦悩を知っているか?

    警戒を怠らず、戦えば勝つという強いメッセージを送った。ハリス司令官の念頭にあったのは、日本との過去の戦争ではなく、中国との将来の対立だったはずだ。接近阻止(A2)、敵を殲滅(AD) 近年、米軍は中国のアクセス(接近)阻止・領域拒否(A2/AD)戦略に警戒を高めている。A2とはある場所に敵が接近することを阻止することで、ADとはある場所にいる敵を殲滅することだ。中国は主に潜水艦と精密誘導ミサイル、そしてサイバー攻撃と衛星攻撃によって、沖縄や東シナ海・南シナ海にいる米軍の排除を目指すとともに、グアムやハワイ、アメリカ本土からやってくる米軍の来援部隊の接近を西太平洋上で阻止しようとしている。 その背景には、アヘン戦争以来中国が海から列強の侵略を受けてきた「屈辱」を繰り返さないという決意がある。より直接的には、1996年の台湾海峡危機で米国が空母2隻を派遣し、手も足も出なかったことをきっかけに、中国はA2/ADに本格的に力を入れ始めた。なお、中国ではA2/ADではなく「介入阻止」戦略と呼ばれる。 米軍はこの中国のA2/ADに対抗するため、エアシーバトル(ASB)という海空戦力のより効率的な一体化を目指す作戦概念の検討を始めた。その後、ASBは陸上戦力の役割が不明確と批判されたため、「グローバルコモンズへのアクセスおよび運用のための統合概念(Joint Concept for Access and Maneuver in the Global Commons(JAM-GC))」へと変更された。このJAM-GCの下で、米軍は陸海空という従来の戦闘空間に加え、サイバー・宇宙空間における行動の自由を確保し、A2/ADを克服することを目指している。A2/ADだった第3次「帝国国防方針」A2/ADだった第3次「帝国国防方針」 米軍がA2/ADの挑戦に直面するのはこれが初めてではない。アジア太平洋戦争で日本が取った要撃作戦は、まさに今でいうA2/ADだった。1936年に改定された第3次「帝国国防方針」は、日本が対米開戦に踏み切ったときに作戦計画の元となった。その中では、「東洋に在る敵を撃滅しその活動の根拠を覆し、かつ本国方面より来航する敵艦隊の主力を撃滅すること」が初期の目的となっていた。具体的には、海軍は作戦当初東アジアにいる敵艦隊を排除し、陸軍と協力してフィリピンとグアムを攻略することが想定されていた。日本に接近してくるアメリカの主力艦隊に対しては、潜水艦と南太平洋の南洋群島に展開する航空機で奇襲攻撃を繰り返して、消耗しきった敵艦隊を日本近海で迎撃するとされた、先制と奇襲を前提とする短期決戦の発想で、ADの後にA2が想定されていた。対米A2/ADが不可能と知っていた連合艦隊司令長官 しかし、山本五十六連合艦隊司令長官は、このようなAD重視の作戦がアメリカに通じないことを誰よりも理解していた。ADである南方作戦が成功しても、帝国海軍が相当の損害を被ることは不可避で、そのような状態でA2としての対米要撃作戦は不可能だった。当初南方作戦を重視していた海軍は南方作戦と対米作戦は切り離せると考えていたが、それは三国同盟で日本がドイツと手を結んだ後では不可能だった。 山本はアメリカの総合的な国力を目の当たりにし、対米戦争に勝ち目がないことを十分認識していた。海軍次官として、山本は大局的観点から三国同盟に強く反対した。しかし、連合艦隊司令長官という立場に立った山本には、勝てない戦争に勝つことが求められた。このため、山本は職を賭してまで捨て身の真珠湾攻撃を立案することになった。 1940年5月、アメリカは太平洋艦隊の主力を真珠湾に常駐させるようになった。日本の南進を牽制するためだった。しかし、日本にこれを奇襲できる航空戦力さえあれば、アメリカの出鼻をくじき、日本が圧倒的に不利な消耗戦を回避し、より有利な条件で早期対米講和に持ち込めるかもしれないと山本は考えた。山本はかねてから航空戦力の重要性を見抜き、帝国海軍の航空戦力を世界レベルにまで引き上げていた。当時の技術では、水深の浅い真珠湾で攻撃力の高い魚雷攻撃を行うことも不可能と考えられていたが、山本はこれを高度の技術開発と激しい訓練によって可能とした。 真珠湾攻撃は正攻法では勝てないが故の奇襲作戦だった。日米交渉が決裂し、12月2日の御前会議で開戦決定がなされた時、連合艦隊はすでにハワイに向けて北太平洋を進んでいた。山本は奇襲作戦を成功させるため、徹底した情報統制を行った。北太平洋を航行中に商船とすれ違うこともなく、天候にも見舞われた。米側の警戒に緩みがあるなど幸運が続き、真珠湾攻撃は大きな抵抗もなく実行に移された。結果は、戦艦5隻の撃沈を含む日本側の一方的な勝利に終わった。ただ、主目標だった米空母は真珠湾にいなかった。山本は不決断のハムレットではなかった 日本は南方作戦でも攻勢を続け、短期間で広大な勢力圏を築いた。しかし、アメリカの空母機動部隊が無傷だったため、アメリカは爆撃機を空母から飛ばして日本本土を空爆し、そのまま中国大陸に着陸させたため(ドーリットル空襲)、アメリカの空母機動部隊を叩き、更なる空爆を防ぐためミッドウェー海戦が急がれた。だが、結果としてミッドウェー海戦で日本は虎の子の空母と艦載機、そして何より熟練パイロットの多くを失い、以後守勢に転じることになった。連合艦隊司令長官の山本五十六大将 真珠湾攻撃は戦術的には成功だったが、A2としては失敗だった。戦略としては致命的だった。結果としてアメリカは第二次世界大戦に参戦し、ドイツを降伏に追いやった後は総力を挙げて日本との戦いに力を注いだからだ。アメリカはA2には屈せず、むしろアジアへのアクセスを確保していった。1度はフィリピンを放棄したが、南太平洋の島々を1つまた1つと日本から奪い、それらを拠点とする航空機と潜水艦で日本と南方の資源地帯を結ぶ補給線を断ち、日本への通商破壊を行った。マリアナが陥落して日本本土への空爆が始まり、レイテ沖海戦で帝国海軍が事実上消滅した時に、日本は敗北した。ただし、敗北という軍事的現実を降伏という政治的決断に移すには、2度の原爆投下とソ連の参戦という外圧が必要だった。山本は不決断のハムレットではなかった 国家の下した決断が誤っている時に、われわれはどう対応すればいいのだろうか。国家の決定に従うのか、それとも抵抗するのか。そのジレンマに引き裂かれながらも、山本は不決断のハムレットではなかった、と歴史家の五百旗頭真教授は指摘する。皮肉なことに、対米戦に最も反対していた山本は、軍人として無謀ともいえる奇襲作戦を成功させ、その火ぶたを切ることになった。そして、結果として国家は滅亡の手前まで追い込まれた。山本がいなければ、真珠湾攻撃は成立せず、日米間の戦争はもっと違ったものになっていただろう。 国家は判断を誤る。それは人類の歴史を通じて繰り返されてきたことだ。中国が軍拡を続け、A2/AD能力を高めても、東シナ海や南シナ海の緊張が高まっても、経済的相互依存のため中国との戦争は起こらないという楽観的な議論が一部で横行している。しかし、戦前の日米間には深い経済関係があったにも関わらず戦争は避けられなかった。われわれは、国家が合理的ではない判断を下す可能性があることを常に念頭に置いておかなければならない。 戦後70年を迎え、日米は強固な同盟関係を維持し、中国のA2/ADの挑戦に立ち向かおうとしている。今後の日米同盟の課題は、中国への建設的な関与を続けながらも、有事に備え、米軍のJAM-GCと自衛隊の統合機動防衛力を融合してすべての戦闘領域で行動の自由とアクセスを確保していくことだ。JAM-GCは、緒戦の段階では米軍を前線から一定の距離まで下げ、長距離攻撃を行うことを想定している。その後アクセスを確保しつつ前線に戻ることになる。しかし、自衛隊には後方に下がる余裕はない。日本の防衛のため自衛隊は前線に留まり、米軍の前線へのアクセスを確保しなければならない。この現実をわれわれは直視した上で、現実的な安全保障の議論を積み重ねて行く必要がある。

  • Thumbnail

    記事

    山本五十六の「暴走」に見る日本軍の組織的欠陥

    井本省吾(元日本経済新聞編集委員) 前回書いた林千勝著「日米開戦 陸軍の勝算」を読む、の続編を書く。陸軍省研究班が有力な対英米戦略を策定しながら、山本五十六連合艦隊司令長官が「暴走」したことから日本は敗戦した。これが前回の結論だ。山本五十六・連合艦隊司令長官 世間では未だに「海軍は善で、陸軍が横暴だった」という固定観念が根強い。特に山本五十六は「日米開戦反対を最後まで主張していた。開戦と決まって仕方なく真珠湾攻撃をめざした」という好意的な意見が多い。 だが、ではなぜ米国民を怒らせる真珠湾攻撃を強行したのか。 実は陸軍省研究班の対英米戦略の腹案(アイデア)は、陸軍参謀本部と海軍軍令部の間で基本的に了承され、昭和16年11月15日の大本営政府連絡会議で正式に決定されていた。その「方針」は以下の通りだ。<極東における米英蘭の根拠地を覆滅して自存自衛を確立するとともに、更に積極的措置により蒋(介石)政権の屈服を促進し、独伊と提携して先づ英の屈服を図り、米の継戦意思を喪失せしむるに勉む> 米国に対してはどういう態度で臨むのか。腹案はこう書いている。<日独伊は協力し対英措置と並行して米の戦意を喪失せしむるに勉む/対米宣伝謀略を強化す/其の重点を米海軍主力の極東への誘致並びに米極東政策の反省と日米戦無意義指摘に置き、米国輿論の厭戦誘致に導く> 日本の軍部は、ルーズベルト大統領がチャーチルの要請に応えて第2次大戦に参戦したがっているのに反し、米国民の多くが第2次大戦への参加を拒んでいることを良く知っていた。だから、米輿論の厭戦気分を高め、戦意を喪失することが得策と考えていた。 山本五十六は真珠湾を攻撃してギャフンと言わせれば、米国民の戦意は喪失すると考えていたようだ。これほど愚かなことはない。力のある者が緒戦で鼻っ柱を叩かれれば、激高して大反撃に出ると考えるのが自然ではないか。 実際に激高し、厭戦気分は雲散霧消、「日本叩くべし」の声が全米で高まった。米国は当時、経済力が世界最大。太平洋での海軍力は日本と拮抗していたが、イザとなれば一気に戦力を拡大できる。実際、そうなった。 上記の腹案はそれを恐れ、極力、米国の戦意を抑制することが肝腎と考えていた。山本五十六はそれと180度違う挙に出たのだ。日本を奈落の底に導いた愚将と言わずしてなんと言おう。なぜ大本営は山本の「暴走」を抑えられなかったのか だが、もっと問題なのは、なぜ大本営はそんな山本の「暴走」を抑えることができなかったのか。もう一度言えば「腹案」が大本営連絡会議で決定したのは昭和16年11月15日である。 真珠湾攻撃によって日米戦の戦端が開かれたのは同年12月9日である。すでに「腹案」決定時には山本五十六率いる連合艦隊は真珠湾攻撃を目指し、大きく動き出していた。最後通牒が米国に手渡されればすぐに攻撃できるように。 これってあり、ですか。「腹案」は米国には極力、こちらから手出しせず、戦う場合は「極東に米海軍をひきつけて」と書いている。そのそばで太平洋の米国よりの真珠湾に攻撃に出かける。大本営政府連絡会議を完全に無視した格好である。組織として体を成していない、と言わざるをえない。 これに対して「緒戦のみ戦術として真珠湾を攻撃して米国に打撃を与え、後は極東、インド洋での戦闘に注力するという戦術はありえた」という意見がある。大本営の「戦略」と山本の「戦術」に齟齬はない、というわけだ。 だが、それは牽強付会というものだ。真珠湾攻撃という「戦術」はどう考えても「米国を怒らせない」「厭戦気分を高める」「米軍は極東に誘致する」という「戦略」に対立する。戦術はつねに戦略に従わなければならない。 にもかかわらず、山本の戦術を認めたところに日本の軍部の、そして日本政府の組織的欠陥があったといわざるをえない。 統帥権の干犯問題により、政府は軍部をコントロールできない。のみならず、陸軍と海軍は同格で互いに相手を掣肘できない。できるのは天皇のみだが、それは形式的で、天皇に軍事的、政治的な権限は実質的になかった。 だから、勝手ばらばらというひどい状態だった。海軍、陸軍内においても統率がとれない。陸軍では関東軍の暴走を抑えられなかったし、海軍にも山本五十六という権威を抑える強い権力が存在せず、「腹案」に反する戦術を黙認してしまったのである。 緒戦の真珠湾攻撃で中途半端に勝ったことがさらに組織的欠陥の傷を大きくした。山本五十六は軍神のように当時の新聞などのメディアで賞賛され、日本から遠いミッドウェーへの攻撃、ガダルカナルへの進出など「腹案」の逆を行く山本の戦術を阻止できなかった。その結果、大敗し、失敗した。 リーダーの統制がきかず、ボトムアップで勝手な行動を黙認してしまう風潮は今も各省庁、古い体質の大企業に見られる。日本の業病ともいうべき、この組織的欠陥を正さすことが不可欠だ。 安倍政権は曲りなりにも強いリーダーシップを保っている。これを維持、強化する政治、行政を築いていかねばならない。(「鎌倉橋残日録 ~井本省吾のOB記者日誌~」より2015年10月28日分を転載)

  • Thumbnail

    記事

    近代批評確立した小林秀雄 全身全霊で祖国の戦争に加わった

     戦争が始まったとき、狂喜したのは一般市民だけではなかった。多くの文学者たちが戦意高揚や礼賛の文章を発表している。詩人の三好達治は、真珠湾奇襲成功を祝した詩を発表し、歌人の斎藤茂吉は『何なれや心おごれる老犬の耄碌国を撃ちしてやまん』、会津八一も『ますらをやひとたびたてばイギリスのしこのくろふねみづきはてつも』と歌った。文芸評論家の富岡幸一郎氏が、文学者たちの言葉を読み解いた。* * * それは詩人や歌人ばかりではなく、西洋文学を深く受容して、近代批評を確立した小林秀雄のような理論的な批評家も同じであった。 真珠湾攻撃の機上からの撮影写真から、小林は次のような文章を紡ぎ出す。作家で評論家の小林秀雄=1968年6月12日《空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曳いて。さうだ、漁船の代わりに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、という事になるのだ。海水は同じ様に運動し、同じ様に美しく見えるであろう。……そういう光景は、爆撃機上の勇士の眼にも美しいと映らなかった筈はあるまい。いや、雑念邪念を拭い去った彼等の心には、あるがままの光や海の姿は、沁み付く様に美しく映ったに相違ない》 戦時中に小林秀雄は『無常という事』『西行』『実朝』『平家物語』など、古典に材をとった名編を執筆している。ランボーやボードレールなど西洋近代の文学を論じてきた小林は、高村光太郎のように開戦に際し歓喜の言葉は記していないが、ここであきらかに日本人の魂の深部に降り立ち、「爆撃機上の勇士の眼」におのが眼差しを重ねている。鋭利な批評家はここで、国民の一人として、全身全霊で祖国の戦争に参加しているといってもよい。 昭和12年、日中戦争の折に小林はすでにこういっていた。《……戦争が始まっている現在、自分の掛替えのない命が既に自分のものではなくなっている事に気が附く筈だ。日本の国に生を享けている限り、戦争が始まった以上、自分で自分の生死を自由に取扱う事は出来ない、たとえ人類の名に於ても。これは烈しい事実だ。戦争という烈しい事実には、かういう烈しいもう一つの事実を以って対するより他はない。将来はいざ知らず、国民というものが戦争の単位として動かす事が出来ぬ以上、そこに土台を置いて現在に処そうとする覚悟以外には、どんな覚悟も間違いだと思う。 日本に生まれたという事は、僕等の運命だ》(「戦争について」) 戦争という「烈しい事実」が、小林秀雄という文学者の魂を揺さぶり、自らのなかにある「日本」を烈しく自覚させたのだ。敗戦後の日本は、このような文学者の声を封印してしまった。 戦争を賛美した者は、戦争責任者として葬り去られた。平和は尊い。たしかにそうであるが、戦後70年ものあいだ日本人は自らが戦った戦争の真実に目を向けてこなかった。しかしグローバルな「戦争」の時代に突入した今こそ、祖国の戦争をあらためて直視すべきだろう。関連記事■ 「戦争ができる国作り」が進む日本の現在の状況を分析した本■ 小林よしのり氏 ネトウヨはイスラム国と戦う勇気ない野次馬■ 老子のタオイズムにも繋がる「おっぱいを好きなだけ吸う」本■ 小林よりのり氏 『戦争論』はある意味誤読されたと語る真意■ TVでおなじみの米国人東大教授が邦人作家6人と対談した本

  • Thumbnail

    記事

    開戦時の高村光太郎 詩人の率直で純真な感動書き記していた

     多くの文学者たちが戦意高揚や戦争礼賛の文章を発表したが戦後、彼らの言葉は一転して批判され、タブー視された。だが、彼らの当時の言葉にこそ、「戦争」の真実があるのではないか。文芸評論家の富岡幸一郎氏が読み解く。* * *「十二月八日午前六時発表、帝国陸海軍は、今八日未明、西太平洋において米英軍と戦争状態に入れり」彫刻家で詩人の高村光太郎 日本海軍の真珠湾奇襲の報が国民にこのように伝えられたとき、日本人はどのような思いに駆られたのか。驚きは不安をもたらしたのか、それとも何か別の感情であったのか。『智恵子抄』で親しまれてきた詩人の高村光太郎は、宣戦の詔勅を聞いたときの感動を次のように書き記している。《聴き行くうちにおのずから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡がくもって来た。私はそのままでいた。奉読が終ると、みな目がさめたようにして急に歩きはじめた。…頭の中が透きとおるような気がした。世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。 現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった。…ハワイ真珠湾襲撃の戦果が報ぜられていた。戦艦二隻轟沈というような思いもかけぬ捷報(しょうほう、注・勝利の知らせ)が、息をはずませたアナウンサーの声によって響きわたると、思わずなみ居る人達から拍手が起る。私は不覚にも落涙した》(「十二月八日の記」) アメリカによる経済的な抑圧政策(いわゆる米・英・中・蘭のA・B・C・D包囲網)は、戦後の東京裁判でパール判事が指摘したようにすでに日本に対する“先制攻撃”であり、日本人はそのことを日々の生活のうちにすでに痛覚していた。開戦時に際しての高村光太郎の言葉は、したがって当時の国民の声を代弁したものであったろう。そこには詩人の率直で純心な肉声が漲っている。 満州事変以後の対中国戦争が泥沼化するなか、苛立ちと後ろめたさを感じ始めていた日本人が、アジア諸国を蹂躙(じゅうりん)してきた白人、その西洋列強の代表たる米英との真っ正面からの戦争に、「世界は一新せられた」と歓喜したのも当然である。関連記事■ 「戦争ができる国作り」が進む日本の現在の状況を分析した本■ 談志の下で26年過ごした志らくが師匠の人となりを明かした本■ 故大島渚の息子兄弟が父の言葉をもとに思い出記したエッセイ■ 「ピッカピカの一年生」コピーライターが作品の背景語った本■ 【キャラビズム】安倍総理に当てはまるシーザーの言葉は?

  • Thumbnail

    テーマ

    お国のために死ねますか?

    これは危険思想か、それとも愛国心かー。元自衛官が上梓した新刊『国のために死ねるか』がベストセラーとなり、話題を呼んでいる。先の大戦では、国のために命を捧げる日本人が後を絶たなかった。終戦から71年。はたして今の日本に、命を捧げてでも守りたいと思う「価値」なんてあるのだろうか?

  • Thumbnail

    記事

    今こそ「敗戦」を直視せよ! 日本が本物の平和国家になるために

    その国と民自身であることを深く自覚してこそ、日本の再評価ができる。 左の自称リベラルからは「ようやく戦争が終わったというのが庶民の気持ちなのに」と責められる。 ゆめ、庶民の味方を僭称なさるな。僭称であることは、東京都知事選での自称リベラル派候補の惨めな言動でもう、ばれている。力を合わせて戦った庶民が「終わった」という深い感慨と同時に「負けるはずはなかったのに負けた」と現実を直視する実感を持っていたことは、多くの記録が物語っている。 終戦ではなく敗戦であると直視すればむしろ、「ただ一度、負けたからといって勝者の言うことを金科玉条にすることはない。世界の主要国はみな敗戦を経験している。日本はそれまで経験していないから、負けたあとこそみずからを確立するという世界の常識を知らなかっただけだ」という真っ当な現実認識に近づく。 そして勝者アメリカもイギリスも今、いったん壊れゆく。すなわち勝者の造った戦後秩序の解体である。敗戦国日本の出番が来ている。海に抱擁するメタンハイドレート、熱水鉱床、レアメタルといった自前資源を実用化して安くフェアに世界に出し、世界でいちばん安全で美味しい農産物をつくる小規模農家の創意工夫を大切にし、その食料をも世界にお分けする。そうやって、世界が資源と食料をめぐって争い、戦争になる時代を超克する。これが本物の平和国家である。 そうすれば敗戦後の日本社会に初めて、共通の目的が生まれる。子供たちは何のために勉強するかの根本が分かり、社会人は何のために働くかの新しい目的が分かり、人間関係に苦しんで自分を見失うことを克服していくだろう。 一身を捧げて惜しくない祖国が、そこに姿を現す。おのれを信じよう。日章旗をブラジルの大地に掲げた、この夏の日本選手のように。

  • Thumbnail

    記事

    戦争のプロ」ではなかった旧日本陸軍、餓死者が続出した大戦の真実

    兵頭 二十八(軍学者) 先の大戦中の日本陸軍のエリート幕僚たちに「戦争のセンスが無かった」ことは、争えません。 疲労衰弱死を含めた戦地における「広義の栄養失調死」の陣没者数が、他国軍とは比較にならず多かったという事実……。それを当時も戦後も「作戦計画の初歩的失敗だった」と自覚して恥じている様子が彼らには無いのですから、話にもならんでしょう。 もちろん、参謀本部というよりは「陸軍経理学校」の責任だろうと考えられる分野もあります。近代軍隊の野外兵糧としては最も不都合の多い「生米」の補給体制を見直さなかったことなどはその筆頭です。 もう日露戦争中から「道明寺糒」(どうみょうじほしいい。モチゴメや屑米をいったん蒸してから乾燥させた口糧で、戦地では水でふやかすだけで消化可能になる。燃料は要らず、煙も立たない。ちなみに生米をいくら水でふやかしても人の腸では消化できない)の実用性と、「冬はすぐにガチガチに凍結してしまう」等の飯盒メシの欠陥が幾度も確認されているのに、彼らは漫然と抜本改革を先延ばししました。ミャンマー・チン州で見つかった日本軍の弾薬=2015年3月20日、ミャンマー・ティディム(豊吉広英撮影) 道のないジャングル内で重い弾薬を推進するのに最も合理的な、「荷物をフレームから吊るした市販品の自転車を手で押して歩く」という方法も、彼らは発見することができず(発見したのは戦後のベトナム人たちです)、いかにも机上の思いつきそのままな、リヤカーもどきの専用小型人力荷車などを試作して得々としていた情けない実態が、戦前の経理学校の機関誌を見ると分かります。そんなものが崖道や藪の中で使い物にならぬことは、近くの里山で即日に確かめられたでしょう。「その業界のプロとはいえない者たち」が素人了見で、税金を徒費しながら日々、自己満足に耽っていたのです。 参謀本部にもそれはそっくりあてはまりました。「自活の道具」が事前に考えられていなかった 日本軍に全般にトラックやブルドーザーの数が足りなかったこととか、手榴弾の実用性が劣悪だったこととかは、みな、参謀本部の責任です。予算を付けるのは陸軍省ですが、その予算を要求するのは参謀本部だからです。参本が要求しないアイテムを陸軍省で多目に買わせようとすることはありません。 南方戦線で現地自活に迫られたような場合の事前の教育訓練がほとんど無かったことも、第一義的には教育総監部の責任ではなくて、参謀本部の責任でした(日本国内の農業の持続限界条件を無視して農民を徴兵した責任は陸軍省にあります)。インド国境に近いミャンマー・チン州で見つかった日本軍の手榴弾=2015年3月20日(豊吉広英撮影) 兵隊を飢えさせたら作戦どころじゃない――というのは、いわば戦争のイロハでしょう。補給線が延びると補給量は細る。それを承知で遠隔地に大量の兵隊を送り込む。ならば必然的に生ずるはずの「糧食不足」という最悪事態局面を、彼らは「物資動員」と兵站計画のプロとして事前にどう回避させるつもりでいたか? そのような策案は、存在しませんでした。日本の試験エリート幕僚たちは、じつのところ「戦争のプロ」ではなかったのです。「自活の道具」が事前に考えられていなかった 今日、客船に積まれているゴム製の救命筏(爆雷みたいな形に畳まれて舷側に固縛されています)には、「釣り糸と釣り針」が必ず搭載されています。これは帆船時代からの西欧の伝統です。 南方作戦の無数の島嶼に展開・転戦することになる日本軍部隊には、最初から、「漁網」や、鳥類捕獲用の「かすみ網」などの自活資材を持たせる必要があったでしょう。広大な地域でしかも流動する戦線では、あちこちの部隊が一定期間、無補給の状態に陥るであろうことは、事前に容易に想像できなくてはなりません。そして漁網もかすみ網も、南方のジャングルで即日に自製することなどできやしないのです。 参謀たちに着眼さえあれば、そのための新たな予算枠なども特に必要はありませんでした。防蚊網を漁網にコンバートできる如く、また、迷彩網はそのままかすみ網としても使える如く、最初から「ユニバーサル機能」を持たせるべく、専門屋のメーカーと相談して平時から正規の装備品として発注し、納品させておけばよかっただけの話なのです。 個人用や大天幕用の防蚊網は、夏の北満勤務の際にも必需品で、日露戦争中からその必要は知られていました。安く大量に補給できたのにそうしなかった「導爆線」安く大量に補給できたのにそうしなかった「導爆線」 旧軍の制式手榴弾は、もともと「擲弾筒」というミニ迫撃砲で遠くまで発射できることを主眼に設計されていましたので、手投げ用としては甚だ不便なことが多く、兵士が携行中に発火機構の雷管が自爆したり、外装式の雷管がいつの間にか外れてしまって役に立たなくなっていたりという深刻なトラブルもよく起こしました。 しかも肝心な殺傷威力が小さかった。単独自決なら確実でしたが、もしこれ1発で集団自決しようとすれば、まずほとんどが死に切れずに苦しむだけだったのです(そうした欠陥は周知されていませんでした)。導爆線を爆破薬に縛着する隊員(陸上自衛隊東部方面隊ホームページより) 旧軍兵器の「バッド・デザイン大賞」第一位候補と言えるものでしたけれども、例外的にこれが南方で大いに有り難がられた用途があります。この低威力武器を海や川に放り込んで爆発させれば、ショックで浮いてきた多数の魚が捕らえられたのです。 手榴弾は、戦時には低規格の素材を使って町工場でも量産させることができるもので、まさに戦前の日本の工業段階にはふさわしいアイテムでした。が、設計段階でよくよく考えられていなければ、そして、試作品をよくよくリアルな状況で繰り返しテストして改善にこころがけなければ、けっきょく魚獲りか自決の役にしか立たぬということにもなる。 エリート参謀たちが「ユニバーサルに機能拡張性がある手榴弾」について何の着眼も有しなかったのならば、むしろ、現地部隊が用法を工夫することで無限にユニバーサル性を発揮できるシンプルな兵器資材を、大量生産して大量補給するべきでしたろう。 そんな究極のユニバーサル資材としては「導爆線」がありました。 黒色火薬がゆっくりと燃えて行く「導火線」と違い、導爆線は、細い紐の中に爆薬が封入されているので、手元の端末を雷管で起爆させれば超音速で反対側の端末まで火が走るのです。だから、電気式発破のコード代わりになる。向こうの端末にも雷管をとりつけ、それをたとえば航空機用の250キロ投下爆弾の炸薬に埋め込んで、その爆弾を道路脇に匿しておけば、近頃のアフガニスタンでゲリラが使っている「IED」(手製大威力爆破装置)と同様の「視発式地雷」ができあがりました。シャーマン戦車だろうと、250キロ爆弾に入っている60kgもの炸薬が直近で轟爆すれば、大破させることができました。 導爆線は、それじたいをジャングルの木の幹に何周かぐるぐる巻きつけて点火しますと、衝撃波で木の幹を切断することもできました。これが現地部隊でふんだんに使えたならば、飛行場の開設や、築城土工も、さぞやはかどったことでしょう。 これほど便利な導爆線を、内地の工場で量産させたり、輸送して補給するのは、手榴弾の量産や補給に比べたら、ずっとコストもかかりません。 しかし参謀本部のエリート幕僚たちにそうした「軍事経済」の気が利かなければ、せっかくのポテンシャルもまったく活かされなかったわけです。戦後の開墾事業に役立った砲兵用の牽引車戦後の開墾事業に役立った砲兵用の牽引車 機能の拡張性と、「兼用主義」とは違います。さいきんの米国では、新兵器の開発プロジェクトに何でも「ジョイント」という枕詞を冠して予算を貰おうとするようになっています。「空軍でも海軍でも陸軍でも海兵隊でも使えますからトータルで税金の節約になります」という、メーカー(およびそこに再就職を期待する、たまたま担当になった将官・佐官たち)から連邦議会へ向けたアピールなのです。しかし開発させてみると、往々、酷い金食い虫になります(代表例がF-35戦闘機。じっさいは3機種別々の新規開発なのに、あたかも空軍、海兵隊、海軍で機体が共用であるかのように売り込まれた)。 兼用主義は、進化論の多様化摂理に逆らったところがあって、兵器や需品のサバイバル競争においても、繁栄が約束されないのでしょう。航空観閲式に出席した安倍晋三首相。会場には最新鋭ステルス戦闘機F35Aの実物大模型(奥)も展示された=2014年10月26日、茨城県小美玉市の航空自衛隊百里基地(鈴木健児撮影) それに対して、たとえば出来合いの市販品をみつくろって軍隊で使ってみようという試みは、機能の拡張そのものです。たとえば米陸軍では、「将来の末端の兵隊の通信機はスマホでいいじゃないか」と考えているようです。みなさんもそう思いませんか? 旧陸軍が対ソ戦の主力重砲にしようと思っていた「九六式15センチ榴弾砲」。このくらいになるともう馬では引っ張れませんので、移動させるための、最新型のディーゼル・エンジン搭載の装軌式トラクターが開発されました。「九八式6トン牽引車」といいます。 量産単価はおそらく中型戦車の三分の一かそれ以下だったでしょう。戦車1両の予算で3台以上は製造できたことになります。 この6トン牽引車と、それよりも古い「九二式8トン牽引車」は、南方の戦地では本来の重砲牽引用途以外に、悪路で物資満載のトラックを引っ張ったり、臨時に土工具を取り付けて滑走路の工事をしたりと、万能の働きをしてくれたそうです。 対米戦はほとんど航空戦争だったのですから、戦力貢献度では戦車以上だったと申せましょう(戦車のサスペンションは踏ん張りがきかないために、無理に土工作業をさせても非効率的でした)。 そしてまた、日本の戦車は米軍の戦車と撃ち合っても歯が立たなかったのに比べ、牽引車で展開させた重砲には、米軍戦車を阻止できる威力があったのです(15センチ榴弾の至近弾でシャーマン戦車の履帯は切れた)。  してみると後知恵では、戦車に投入した資金と労力をぜんぶ牽引車やトラック(軍用6×4タイプでも単価は中型戦車の十四分の一です)に回していた方が、日本陸軍の総合戦力は遥かにアップしていたかもしれないわけです。対ソ戦でも航空戦力が決め手になるであろうことは昭和16年には確定的でした。 敗戦後、復員兵と引揚者で内地の人口が溢れ、戦争中は一人もなかった「餓死」が国民の現実の脅威として急浮上したとき、国内の未開墾地に、サープラスの「6トン牽引車」と「8トン牽引車」が、馬代わりに投入されます。これらの改造牽引車は、旧軍のトラック類と同様に、戦後の復興期に完全にスクラップ化するまで各地で駆使されましたため、今日、現物は1両も残っていません。しかし、およそ、よくできた装備品には、意外な機能拡張性があって重宝することを、わたしたちに思い出させてくれる実例なのです。

  • Thumbnail

    記事

    自衛隊はいつまで「戦争ごっこ」を続けるのか?

    会話の趣旨は御理解いただけたであろう。 果たして戦後日本は、いつまでゴッコを続けるのだろうか。天災も戦争も、忘れたころにやって来る。

  • Thumbnail

    記事

    戦費でみる大東亜戦争の異常性 GDP換算4400兆円の驚異

    に関する議論においてスッポリと抜け落ちているものがある。それは経済と金融の視点だ。経済体力を無視して戦争を遂行することはできないし、それを強行すれば太平洋戦争のように国家財政を完全に破たんさせてしまう。 日本は明治の近代化以降、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争という3つの大きな戦争を経験してきた。日清・日露戦争は経済体力の範囲内で遂行された合理的な戦争といってよいが、太平洋戦争だけはまるで状況が異なっている。太平洋戦争の異常さは数字を見れば一目瞭然である。  日清戦争における戦費総額のGDP(国内総生産)比は約0.17倍だった。当時の国家予算(一般会計)との比較では約3倍となっている。近代兵器が投入された日露戦争は戦費が大幅に膨らみ、GDP比では約0.6倍、国家予算比では約6.5倍になった。日露戦争はかなり無理をした戦争だったが、それでも国内の経済活動を犠牲にしなくても済むギリギリの水準に収めたとみてよいだろう。 ところが太平洋戦争になると根本的にケタが変わってくる。太平洋戦争(日中戦争を含む)の名目上の戦費総額は約7600億円だが、これはGDP比では33倍、国家予算に対する比率では280倍という途方もない数字である。当時の日本は、無理な戦費調達から歯止めの効かないインフレが進行しており、見かけ上の戦費が大きく膨れあがった。昭和17年4月、大阪・梅田の国債債券売場に女優の初代水谷八重子一座が応援。タスキをかけ戦時債券の販売PRをした インフレを考慮した実質的な戦費は2000億円程度になるが、それでもGDPとの比率では約8.8倍、国家予算との比率では74倍である。先ほどの数字よりは小さいものの、現在のGDPに換算すると4400兆円であり、天文学的なレベルであることに変わりはない。戦費を経済体力の範囲内に納め、国民生活に影響を与えることなく第二次大戦を乗り切った米国との違いはあまりにも大きい。 太平洋戦争の異常さは金額だけではない。その財務戦略もまるで異なっている。日清・日露戦争の戦費は基本的に国庫からの支出や国債の市中消化によって賄われた。特に日露戦争の戦費調達については、英国のシティと米国のウォール街にある投資銀行のネットワークがフル活用された。当時の資金調達の責任者であった高橋是清(のち蔵相・首相、2.26事件で暗殺)は、海外投資家に対して見事なプレゼンを行い、巨額の起債に成功している。 一方、太平洋戦争は費用があまりにも巨額であり、国債を市中で消化させることは到底不可能であった。当時の覇権国家である英国と米国を敵に回しており、グローバル市場で資金を調達することもままならない。結局、日本は戦費のほとんどを日銀の国債直接引き受けで賄った。 つまり日銀が輪転機を回し続けるという政策であり、当然のことながら、この施策は円の価値を激しく毀損させる。結局、日本は終戦をきっかけに物価が約180倍に上昇するという準ハイパーインフレを起こし、経済は完全に破たん。最終的には財産税によって国民の預金を根こそぎ奪う形で帳尻を合わせる結果となった。 日露戦争と太平洋戦争の顛末を比較すると、戦争というものが経済や金融と不可分であることがよく分かる。日露戦争では、日英同盟を背景に英国から最新鋭兵器を自由に調達することができた。資金面においても、シティとウォール街の協力を取り付けることに成功している。場当たり的対応だった太平洋戦争 一方で、経済力の問題から長期の戦争継続が難しいことをよく理解しており、奉天会戦と日本海海戦の勝利をもって、米国の仲介でロシアと講話条約を締結した。維新という半ばクーデターに近い形で政権を掌握した明治政府の指導者に対する評価は様々だろうが、現実主義的でグローバルな視点を持ち合わせていたことだけは間違いないだろう。 太平洋戦争はすべての面においてこれとは逆向きになった。グローバル経済に背を向け、戦費確保の見通しも立たないまま全面戦争に突入し、最後は国家を破たんさせてしまった。 太平洋戦争に至る経緯について、日本側には選択の余地がなかったとする見解が根強いが、果たしてそうだろうか。日露戦争後、満州への進出を強化した日本に対して、これを認めない米国との対立が深刻化したというのが教科書的理解である。だがこれは歴史をひとつの側面から見た解釈に過ぎない。経済やビジネスという視点で一連の経緯を振り返ってみれば、まったく異なった解釈も成立する。南満州鉄道本社(右、Wikimedia) 日露戦争後、米国側からは満鉄の経営を両国でシェアするプランが提示されたが、日本側はなぜかこの提案を蹴っており、これが太平洋戦争の遠因になったともいわれる(桂ハリマン協定)。この協定が本当に戦争の原因だったのかについては諸説あるのだが、ビジネスという視点で考えれば、日露戦争の最大の功労者であった米国と、満州経営に関してパートナーシップを組まないという日本側の決断は常識的とはいえない。 戦争というものは、それ自体が独立しているものではなく、日常的なビジネスの延長線上に発生するものである。日本には日露戦争後の経済的グランドデザインがなく、場当たり的な対応を繰り返すうちに、米国と取り返しのつかない溝を作ってしまったと考える方が自然である。 戦争と経済・ビジネスを切り離して考えるなど、そもそも不可能である。グローバルなビジネス競争を勝ち抜き、豊かな消費経済を維持できる国は、イノベーションが活発になり、結果として戦争遂行能力も高くなる。 日本はバブル崩壊以後、グローバルな競争社会に背を向け、相対的な経済規模を縮小させてきた。国家の安全保障について真剣に考えるなら、日本がまず取り組むべきなのは、グローバル経済における競争力の回復だろう。

  • Thumbnail

    記事

    国民の殉難を現在の戒めとする行為、靖国英霊の大前こそふさわしい

    て原爆被害者の慰霊碑に詣で来り、謂(い)はばその罪責を自ら認めたのであるから、此の日を無辜(むこ)の戦争殉難者の慰霊を斎行し、その悲痛の記憶を新たにする日とするのは適切であらう。原爆慰霊碑に献花するオバマ米大統領=5月27日(AP) ところで昭和12年7月29日に発生した北京東郊通州での邦人居留民(内地人117名、朝鮮人106名)大量虐殺事件の惨劇について、筆者には別種の或る感慨がある。昭和61年夏の高校用国史教科書外圧検定事件の記憶である。 あの時、原書房から刊行予定の『新編日本史』の監修者の一人として、筆者は文部省教科書調査官の検定意見を拝聴する立場に在つたのだが、この教科書に記述してあつた通州事件の悲劇については57年の検定虚報事件の跡始末として宮沢喜一官房長官の定めた近隣諸国条項の壁は何とか突破したものの、検定合格後に更に加へられたいはゆる外圧修正として遂に削除を命ぜられた記憶を持つ。 その外圧とは、文部省は「向こう側」の要求だとしか言はず、それは何者かとの私共の反問に、只、察してくれ、といふだけだつたが、本紙61年7月5日号は第1面に、それは北京政府と外務省内の親中派の事だ、と判然と認める体の記事を作つてくれてゐる。 あれから本年で丁度30年が経過した。この間平成2年には故中村粲(あきら)氏の労作『大東亜戦争への道』が刊行になつて、済南事件、通州事件共に、漸(やうや)くその実相が具体的に記述されるに至つたが、それ以前は例へば『國史大辭典』の如き斯界の権威たるべき基本的文献に於いてさへも、中華民国側の虚偽宣伝をそのまま批判も加へずに引用したかの如き筆法によつて他人事の様に記してゐるだけである。忘却を強いられた歴史の記憶を取り戻せ 通州事件については最近、藤岡信勝氏が、数少ない生存者からの証言の直接取材によつて極めて具体的な現場検証に近い研究を発表してをられる。この事件を歴史の教科書に記載するといふ懸案も、氏が執筆者の一人である中学校用の教科書で実現した由である。 そればかりでなく氏と同氣同憂の方々は、この事件をユネスコの世界記憶遺産に登録を申請する事にまで踏み込まれた。首尾よく申請が承認される事を祈るばかりである。只、肝腎なのは我々日本国民各自が、この悲惨な事件を、謂はば国民共有の記憶遺産として、日本国の直面する国際関係の諸問題に対処するに当つて常に意識の根柢(こんてい)に蔵しておく事である。 同じ文脈で頭記の殉難者慰霊祭実行委員会代表の現代史研究家、水間政憲氏の「ひと目でわかる」との冠をつけたグラフ形式の近現代史再検証の連作が回を重ねて第9冊に達してゐる事の意味も大きい。重要なのは〈歴史を奪はれた民族は滅びる〉との有名な命題の裏返しとして、今我々は民族として生き延びるための条件である、忘却を強ひられた歴史の記憶を我が手に取り戻す事業を推進しなければならない、この一事である。 念の為に注記しておくならば、靖國神社は嘉永6年の黒船来航以来、国事に身を捧(ささ)げて斃(たふ)れた人の霊を祀(まつ)るお社である。従つて済南事件、通州事件についても、日本居留民及び在外権益の保護といふ官命を受けての公務遂行途上で落命した軍の兵士達の霊は合祀されてあるが、外地で商工業に従事してゐた一般居留民の殉難者の霊は合祀されてはゐない。終戦記念日に多くの参拝者が訪れる靖国神社=2016年8月15日、東京都千代田区 それは、戦闘員ではないが最後まで職場で公務についてゐて自決した樺太真岡の電話交換手達や、官命による学童集団疎開の途上で敵国からも安全を保障されてゐた乗船阿波丸を撃沈されて全員海没してしまつた一般乗客が合祀の対象になつてゐるのに、全国六十余都市に向けての米軍の戦略爆撃の犠牲者は、各自の生業の場での遭難である故に公務死以外は合祀されてゐないのと同じである。 さうした宗教学上の問題はさて措いて、近現代に於ける対外関係の中での国民の殉難の歴史を想起し、改めて記憶に刻み、以て今日現在の戒めとするといふ試みは、やはり国民の守護神である靖國の英霊の大前でが適(ふさは)しいと思ふ。

  • Thumbnail

    記事

    国のために死ねる自衛隊員の人生観とは

     あなたは国のために死ねるか。話題の新書の著者について、コラムニストのオバタカズユキ氏が語る。 都知事選や大量殺人などの騒ぎにおされて、誰も気に留めていなかったが、7月の最終週には北朝鮮の拉致問題関連ニュースが2本流れた。1本は、拉致事件に関与した疑いで国際手配されている元工作員、シン・グァンスが、朝鮮中央テレビに映っていた件だ。日本の警察は2006年から身柄引き渡しを求めているのだが、北朝鮮は未だに彼を英雄扱いしている。 もう1本は、日本の岸田外務大臣が東南アジア諸国連合のラオス会議で、北朝鮮に対し「すべての拉致被害者の帰国を含む一日も早い拉致問題の解決を求める」と述べた件。それがどの程度の実効的意味を持つのかは分からないが、拉致被害者家族が高齢でいつ亡くなってもおかしくないことを考えると、ずっと外交的努力を続けるだけでいいのかよ、という思いにもなる。 日本は平和国家。ゆえに、幾ら効き目がなさそうでも、飽くまで外交的努力でこの難題を解決していく。というコンセンサスが揺るがないなら、自分が拉致被害者家族であれば我慢できないと思う。なぜ実力行使で取り返してくれないのか、自分たちは見捨てられているんじゃないか、と。しかし、戦後の日本はずっと打つ手なしで、乱暴者の北朝鮮にやられっぱなしかというと、そんなこともないのだ。武力を用いて、拉致船と戦った過去がある。 1999年の能登半島沖不審船事件がそれだ。拉致した日本人を乗せて航行中と思われる不審船を、海上自衛隊のイージス艦「みょうこう」が猛追、不審船のわずか200~50メートル前や後や横に何発もの炸裂砲弾を発射した。護衛艦「みょうこう」 その破壊力に参ったか、不審船は真っ暗な日本海のど真ん中に停船。「みょうこう」の若い自衛隊員たちが、まさに死を覚悟し、不審船内に立入検査のため乗りこもうとした。その刹那、不審船は再び逃走。結果的には取り逃がしたのだが、そんな大事件があったことをほとんどの日本人は知らない。かく言う私も昨年の2月に、その事件について触れた毎日新聞の記事を読むまで、まったく知らなかった。この国が国民を守るためそんな無茶をしていたなんて、驚いた。 7月20日に刊行された一冊の新書。『国のために死ねるか』の著者は、海上自衛隊の「特殊部隊」である特別警備隊の創設に携わった伊藤祐靖だ。上記の毎日新聞記事で紹介されていた元自衛官で、いまは警備会社のアドバイザーなどを務めている。そして伊藤は、東京で私塾を開き、現役自衛官らに、自分が身につけた知識、技術、経験を伝えている。 毎日新聞で伊藤祐靖の存在を知り、私は妙に惹かれた。伊藤は自分と同じ1964年生まれ。いい学校、いい会社に入ることが至上価値という標準的な生き方が苦手で、高校時代までずいぶんヤンチャをしていたらしい。私の10代もちょっとそうだった。彼は茨城でドタバタ、私は千葉でモンモン。かつて「チバラキ」という蔑称があったが、育ったエリアもそう違わない。どこか似た者同士かもという勘が働き、会ってみたら案の定、ウマが合い、共に一冊の本を作る間柄になったのである。波乱万丈の伊藤氏の半生記 伊藤祐靖は能登半島沖不審船事件の際、「みょうこう」に航海長として乗船しており、そこで何があったかを詳細に知っている。そして、ほんのついさっきまでバカ話をしていた若い下士官たちが、立入検査の命令を受け、わずか5分ほどで死を覚悟した様を見ている。伊藤は、「これは間違った命令だ」と考えていたそうだ。死を覚悟した若者たちの表情を美しいと感じつつ、「彼らは向いていない」とも思ったとのことだ。 追い詰められたら自爆確実の不審船に乗りこんで拉致被害者を救出するような任務は、「まあ、死ぬのはしょうがないとして、いかに任務を達成するか考えよう」といった人生観の持ち主に任せるべき、と伊藤は言う。彼自身そういう人間だし、自衛隊の中にも一定数そういう連中がいる。その種の者を選抜し、特別に訓練をさせて実施すべきだ、と。 そして、そのわずか2年後の2001年に、自衛隊初の「特殊部隊」である特別警備隊が誕生した。現場リーダーのような立場だった伊藤は、2007年まで特殊部隊に所属、異動の内示が出てそれを拒否、特殊戦の能力を磨くため単身ミンダナオ島に飛んだのだが、この調子だとコラムが終わらない。波乱万丈な彼の半生記は、『国のために死ねるか』で堪能していただきたい。 ただ、日本に特殊部隊がてきて以降、新たな拉致事件はおきていない。おそらく抑止力が効いたのだ。それはそれとして、ここでは本の中に書かれていない、彼の私塾について少し触れておく。 本の完成度を上げたかったから、伊藤祐靖とは議論を重ねるだけでなく、彼の「現場」にも行かせてもらった。私塾に数回、見学者として参加。彼らは、銃の使い方から近距離での戦闘法まで、かなり高度と思われる座学を数時間、その後、実技訓練を繰り返し行っていた。 私塾の訓練は海や山でも行われるが、基本的には東京のビルの地下を拠点にしている。少し秘密基地っぽい地下室に入ると、そこはフィットネスクラブみたいに明るい。だが、すぐさま普通でないと分る。壁にたくさんのモデルガン、奥の方には射撃の的がある。リアルな人の顔の的も設置されている。 でも、そこの空気は柔らかい。伊藤祐靖がそういう人だからなのだが、参加している他者に対して、みんなすごくフラットに接する。見た目は、ヤンチャな感じの若者が主流なのだけど、体育会ではなく同好会くらいの礼儀正しさで、すごく自然体だ。関連記事■ イラクで活躍「ヒゲの隊長」 震災後の自衛隊の活躍を報告■ 元防衛大臣・北澤俊美氏が震災時の自衛隊の働きを解説した書■ 人命救助2万人、遺体収容1万体 自衛隊の災害派遣の実績■ 福島原発に災害派遣されたのと同じ74式戦車を間近で見られる■ 女性自衛官1.2万人 ヘアカラーやネイルはどこまで許される?

  • Thumbnail

    記事

    「鈴木貫太郎親衛隊」が語る昭和天皇による玉音放送の舞台裏

    断は、ポツダム宣言受け入れだろう。それを決断したのは昭和天皇と総理大臣の鈴木貫太郎である。貫太郎は「戦争継続」「本土決戦」を叫ぶ陸軍の主戦派から命を狙われていた。貫太郎を守るため、官邸のなかに極秘の組織がつくられた。「鈴木貫太郎親衛隊」である。 歴史の正史には存在せず、戦後長く封印されてきた「鈴木貫太郎親衛隊」。その生き残りが、いまも函館で静かに暮らしている。90歳の長松幹榮だ。私は、戦後70年を迎えるに当たり、長松に何度もインタビューしてきた。首相就任が決まり、宮中から自宅に戻った鈴木貫太郎(左)。77歳の首相誕生には昭和天皇の意向が強く働いた=昭和20年4月 私は戦争で命を奪われそうになった人の証言を聞くことがあるが、戦争を止めるために命を懸けた人の証言は初耳だっただけにじつに刺激的だった。この老人は70年前の「8・15」の攻防劇を鮮明に覚えていた。 長松がまず見せてくれたのは、自らの身分証だ。古ぼけていて、文字は辛うじて読み取れる。勤務地は内閣総理大臣官舎。交付日は昭和20(1945)年8月12日。終戦のわずか3日前だ。この身分証には、「内閣嘱託」という肩書が明記されている。 「四元義隆さんは、本当に深い人なのです。右翼の大物というと、軍国主義を煽った人物のように思われるかもしれませんが、まったくそれは違います。いかにして戦争を止めるか。それを必死になって考え、行動したのです。私にとっては生涯の師匠です。私がこれまでの人生を過ごせたのは、四元義隆先生とお兄さんの四元義正先生の薫陶を受けたからです」。のっけから飛び出した「四元義隆」という名前。戦前から右翼の大物として知られていた四元義隆は戦後、「政界の黒幕」と呼ばれ、歴代の総理大臣を指南してきた。吉田茂の懐刀となったのを皮切りに、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘、そして細川護熙などに助言してきた。 とりわけ有名なのは、中曽根との親交だ。中曽根は五年間の任期中、167回も台東区にある全生庵に出向いたが、座禅を指示したのは四元だった。 ちなみに総理大臣の安倍晋三は、8年前に病気で辞任した際、月に一度全生庵に通い、座禅を通じて体調が回復した(今年7月24日にも参禅)。中曽根にとって四元は最大のブレーンで、節目、節目で相談を受けた。 マスコミ嫌いで知られていた四元だったが、田原総一朗のインタビューには答えている(1995年6月号『中央公論』「『戦後50年の生き証人』に聞く(6)」)。インタビューで四元は、総理就任を固辞していた鈴木貫太郎を、高僧として知られていた山本玄峰〈げんぽう〉に引き合わせたことを明らかにした。 「玄峰老師がまっ先に言われたのは、『こんなばかな戦争はもう、すぐやめないかん。負けて勝つということもある』ということでした。鈴木さんも『もうひとつの疑いもなく、すぐやめないかんでしょう』と、意見が一致したんですよ。その帰り、車の中で玄峰老師は、『もう大丈夫だ。こういう方がおるかぎり、日本は大丈夫だ』と言いましたね」。それから十数日後に、鈴木貫太郎は総理に就任した。 四元は戦前、国粋主義者のテロリストとして知られていた。大蔵大臣の井上準之助や三井財閥の團琢磨らを暗殺した昭和7(1932)年の血盟団事件の首謀者の一人だったためだ。戦中は、近衛文麿や鈴木貫太郎の秘書役を務め、東条英機への反旗を鮮明にしていた。「東条は日本を亡ぼす。このままでは危うい。この戦争は止めなければならない」と、重臣らを説得して回った。東条暗殺計画を企てたともいわれている。 こんな四元を師匠として尊敬する長松は「鈴木貫太郎親衛隊に入るきっかけは高峯道場でした」と語った。この仕事で俺は死ぬこの仕事で俺は死ぬ 長松は神奈川県にあった高峯道場で半年間訓練していた。この道場は、東アジアの現地駐在員を養成する機関だった。現地の言葉を教えるだけでなく、座禅などを通じて人間教育をしていた。道場には、常時40〜50人の道場生がいた。この高峯道場の道場長は、四元義正。四元義隆の兄だ。 長松は昭和20年3月に道場を「卒業」した。直後の東京大空襲の惨状を見て「日本の敗戦は近いのではないか」と不安な気持ちになった。夏になり、高峯道場に戻った。卒業していたものの、5期生の控室があり、そこで寝泊まりしていた。そんなある日、高峯道場の本部から呼び出しを受けた。道場長が緊急の用事があるとのことだった。長松は道場長の四元義正と面談した。 「おまえの出番が来たぞ。重要な任務を遂行してもらう。どんな任務かは話せない。よいか。これからおまえのする仕事は国民からバドリオという汚名を受けることになるが、国家百年ののちには英雄として崇められるだろう」 ピエトロ・バドリオは、イタリアでムッソリーニ失脚後に首相に就いた政治家だ。国王の意向を受けて密かに連合国と休戦交渉を進めた。日独伊三国同盟からみれば、真っ先に連合国側に寝返った「裏切り者」だ。戦時下の日本では、バドリオという言葉は、裏切り者や卑怯者の代名詞だった。 緊張して四元義正の話を聞いた。具体的な任務については、義正の弟の義隆が説明するという。どんな仕事なのだろうか。義隆さん直々に話してくれるそうだが、この仕事で俺は死ぬ。それだけは確かだ。特攻で死んだ同級生もいる。 「この任務遂行でおまえの命はないだろう。身辺整理はちゃんとしろ」、四元義正は命じた。 長松は直ちに控室に戻り、障子紙を探し出した。剃刀を用意したが、さび付いていた。丁寧に砥いだ。長松は思い切って、右親指に剃刀を入れた。その血で書いたのが「七生報国」。これは、後醍醐天皇に仕えていた楠木正成が、足利尊氏に敗れて自刃したときに誓った言葉だ。7回生まれ変わって、逆賊を亡ぼし、国に報いようという意味だ。神戸・ 湊川公園の楠木正成像(Wikimedia) 長松はかねがね、人生最後の局面では、この「七生報国」を書こうと思っていた。 次は父親宛ての遺書だ。墨をすって、書いた。19歳まで育ててくれた感謝の意を示さねばならない。道場の神棚の前で沈思黙考しながら正座した。 およそ30分間かけて、生活用品を雑嚢に入れ、旅の準備を整えると、すでに、後輩の六期生は道場の前の庭で整列していた。長松の壮行会を開くためだ。死んだ母親の顔が浮かんできた。 まず四元義正が壇上に立ち、挨拶した。 「長松くんは、重要な任務遂行のため、東京に出る。おそらく生きて帰れないだろう。ただ、日本という国のため、重要な仕事だ。みんな送り出してやってくれ」 長松は晴れがましい表情だった。 「この道場では、四元先生の教えを受けて、きわめて有意義な時間を過ごせました。本当に感謝しています。二度とお会いできないかもしれませんが、私はお国のために、出陣します」 大急ぎで道場所有の車に乗り込んだ。車窓からは、途中真夏の陽光を浴びる樹木などを眺めた。これで見納めだろう。子供のころ裏山で蝉取りしたことなどを思い浮かべた。「今晩、陸軍が襲撃する」 途中列車に乗り換え、吉祥寺にある四元義隆の家に着いたのは午後3時ごろだった。 薄暗くなる夕刻の時間帯の午後6時。床の間に供えられた神棚に灯明が灯された。義隆の家には、次々に若者が姿を現した。彼らに対し、四元義隆は「命は俺が預かった」と言い放ったあと、具体的な任務を説明した。「日本は窮地に立たされている。広島や長崎で原爆が落とされた。このまま戦争を続ければ、本土決戦は避けられない。ポツダム宣言を受け入れることこそが、日本の国体を維持することになる。鈴木総理は命懸けで、受け入れの準備をしている。ただ、陸軍はそれに強硬に反対しており、いつ反乱を起こすかわからない。総理の身に何かあれば、日本の再興は困難になる。ここにいる4人が総理の警備の柱になってほしい」 鈴木貫太郎を襲ってくる部隊がいれば、素手で立ち向かう。それが四元義隆の命令だった。 この親衛隊の隊長は北原勝雄。四元にとっては、鹿児島二中、七高柔道部の後輩だ。四元からの信頼は厚かった。 四元の話が終わると、各メンバーの前に盃が配られた。一人ずつ、四元の前に進むと、盃にお神酒が注がれた。自分の身を盾にして総理を守ることを誓って盃を空けた。これは、親衛隊の結成式だった。 親衛隊はその後、用意された車で、小石川・丸山町の鈴木貫太郎の私邸に向かった。事前に下見する必要があるからだ。 長松は11日、四元の家に泊まった。翌12日、朝起きて官邸に出向くと、内閣嘱託という身分証を手にした。それから総理官邸での不眠不休の警護が始まった。 なぜ、鈴木貫太郎親衛隊が生まれたのか。四元と書記官長の迫水久常は同じ鹿児島県出身で旧知の間柄だった。当時陸軍のなかでは、徹底抗戦派が殺気立っており、2人はかねがね鈴木貫太郎の護衛に関して懸念を抱いていた。そこで、戦争終結を必死で考えている青年や学生がメンバーとなる親衛隊が必要との考えで一致した。 翌13日、事態は早くも緊迫した。北原のもとに、「今晩、陸軍が襲撃する」という情報が入った。北原は長松ら3人を呼び出した。 「一兵たりとも、総理の部屋に通してはいけない。命懸けで立ち向かえば、お守りすることは可能だ」と鼓舞した。武器を持っていない親衛隊にとっては、身を挺して総理を守るしかない。官邸内は灯火管制で真っ暗だ。親衛隊の部屋は、総理官邸の正面玄関に向かって左2つ目にあった(私邸は、玄関を入り直ぐの間に位置)。真夏なのに窓を閉め切っており、暑い。じっとりと汗が流れた。しかし、この日、陸軍は姿を現さなかった。みな一睡もしないまま夜が明けた。決死の脱出劇決死の脱出劇 そして日本の運命を決めた14日。御前会議で、天皇陛下はポツダム宣言受諾を最終決定した。すべての閣僚が終戦詔書に署名したのは、午後11時過ぎになっていた。その後、日本政府は、連合国側にポツダム宣言受諾を伝えた。鈴木貫太郎内閣の書記官長、迫水久常 北原は一日中、貫太郎のそばに張り付いていたが、書記官長室で迫水と出会った。迫水の耳元で、「今晩陸軍が蜂起し、官邸を襲うという情報が入っています」と囁いた。迫水は北原に本音を漏らした。 「今晩は総理の私邸に行かずに一緒に泊まっていただけないか」 北原は無下に断るわけにはいかない。総理官邸でしばらく過ごすことにしたが、朝まで総理を私邸に放置するわけにはいかない。迫水には、「午前4時に車を用意してくれませんか。その後は、総理の私邸に向かいます」といった。 午前4時。北原らはすぐに総理私邸に向かおうとした。しかし、迫水と約束した車は見当たらない。そこで車を借りるため桜田門の警視庁に向かった。 長松は、官邸の門で陸軍の一個分隊10人ほどの姿を見た。軍人たちは「への字」の形で並ぶケサ型散開を完了、いつでも銃弾を撃てるように準備していた。北原は長松に対して「よそ見をせずまっすぐ歩いてついて来い」と指示した。 のちに聞いたところ、この陸軍の分隊は東京警備局横浜警備隊長の佐々木武雄が率いており、横浜工専(現横浜国立大学工学部)の学生らも参加していた。 佐々木は警察官数名に拳銃を抜いて「国賊を殺しに来た。刃向かう者は直ちに殺すぞ」といい、貫太郎暗殺を宣言した。それに対し、警察官は「総理はいま丸山の私邸に戻りました。あちらを襲撃すればいい」と告げた。当時の警察官は、士気が落ちており、反乱軍から総理を守ろうという気概はなかった。 一方、北原は警視庁で「俺は内閣の者だ。官邸が襲撃された。総理私邸まで車を出してくれ」と頼んだ。 警視庁は事態が緊迫していることを察知し、すぐにガソリン車のオープンカーを用意してくれた。運転手は警視庁の関係者で、助手席には長松が座った。この運転手は幸いにも、総理私邸付近の地理を熟知していた。 ところが、車が二重橋前に差し掛かろうとした際、銃を持った兵士が「止まれ!」と叫んだ。車は仕方なく、止まった。 「ここから一歩でも動いてみろ。殺すぞ」。一人の兵士は、銃先を車に突き付けてきた。 北原はふいに「右に回れ」と大声で叫んだ。車が急発進し、兵士たちは道を空けた。車は加速し、総理私邸に向かった。この兵士たちは、上司を殺害し、終戦に徹底的に反対した近衛師団所属の反乱軍だったとみられる。皇居を占拠し、天皇が終戦の詔勅を読み上げた「玉音放送」の録音盤を奪おうとしていたグループだ。 北原は、この反乱軍が占拠している宮城(皇居)前の広場を通るのは無理だと思い、宮城を逆回りすることにした。三宅坂、半蔵門から靖国通りに入り、九段を抜けて、小石川・丸山町へ急行するルートだ。空襲にも焼け残った私邸が灰燼に帰す 車が飯田橋の先の道を左折した際、付近で乗用車とトラックが見えた。三角青旗を立てていた。佐々木らの部隊はこの2台に分乗していた。一方、北原は運転手に「なんとか、あの車より早く到着してくれ」と命じた。運転手は裏道を猛スピードで走る。大塚仲町を経て、総理私邸に到着した。ちょうどそのころ、鈴木貫太郎は私邸から脱出しようとしていた。官邸から、襲撃隊が私邸に向かっているとの電話連絡があったからだ。 貫太郎の私邸に到着した北原は、土足のまま家の中に入った。車の前で待っていた長松たちは「北原隊長が、鈴木総理の腕を引っ張って、玄関の外に出したのを見ました」と語る。高齢の貫太郎は動きがゆっくりしていた。やっと車に乗り込み、北原も同乗した。 ところが当時、ガソリンの質が悪く、エンジンがかからない。長松は思い出す。「坂道だったのですが、親衛隊と警備の警察官がみんなで車を押してやっとエンジンがかかりました」。 ぎりぎりのタイミングで貫太郎は脱出できた。それは「偶然の産物」だった。大通りを走っていた佐々木ら襲撃隊の車は、もうすぐそばにいた。しかし、大通りに面した総理私邸が質素なため、通り越していた。大通りの坂の上には大きな豪邸があり、そこが総理私邸だと勝手に思い込んでいたのだ。 そして、もう1つの偶然があった。普段なら総理専用車は方向転換して大通りに面して駐車していたが、この日は、私邸に隣接する左折した道に頭から突っ込んでいた。そのため、総理専用車は裏道をそのまま進んだ。大通りを進んでいたならば、襲撃隊の車と鉢合わせとなっていた。 佐々木ら襲撃隊はその直後に、総理私邸に到着。「総理はどこにいる」と叫びながら土足で私邸に上がり込んだ。そして、一部屋一部屋を押し入れまでチェックし、そのあとガソリンをまいて、火をつけた。鈴木の家は全焼した。空襲にも焼け残った家が灰燼に帰したのだ。 消防団が駆けつけたが、「国を売った総理の家に水を掛ける義理はない」といって本気で消防活動に当たらなかったという。 その後、佐々木らの部隊は、淀橋区西大久保にあった枢密院議長の平沼騏一郎の自宅に向かい、この家にも火を放った。自彊不息 鈴木貫太郎親衛隊の長松は、貫太郎が私邸から脱出したのち、警視庁で借りたオープンカーをエンジンを切らずに待たせておいたので、すぐ残った3名が乗車した。運転手の「次はどこへ」との声に「最も近い駅に着けてください」というと、そこがたまたま駒込駅であった。駅で車を降りると山手線と中央線を乗り継いで、吉祥寺にある四元邸に向かった。長松は巣鴨駅を過ぎた際、山手線の窓から外を見た。朝もやのかかるなか、2カ所から煙が上がっていた。1つは、いましがたまでいた総理私邸だ。もう1つは、平沼枢密院議長の私邸だった。いずれも佐々木たちが火を放った。 長松らは四元に報告した。四元は黙って聞いていた。長松は三日三晩徹夜したが、眠くはなかった。そしてこの四元邸で正午を迎え、玉音放送を聞いた。玉音放送での終戦の詔の後、たくさんの人たちが宮城(皇居)前広場でひざまずき頭を下げた=昭和20年8月15日自彊不息 長松は長い話に多少疲れたようだったが、私にもう一つ見せたいものがあるといって、仏壇の引き出しを開けた。そこには、古い色紙が入っていた。「自彊不息〈じきょうやまず〉」 それは貫太郎の書で、たゆまぬ努力を続けることの大切さを説いたものだ。貫太郎は終戦ののちに、親衛隊のメンバーを親戚の家に呼び、一人一人に直接手渡した色紙という。 貫太郎は昭和11(1936)年の「二・二六事件」の際、陸軍のクーデター部隊に襲われ、3発の銃弾を受けている。平和の尊さ、そして陸軍の恐ろしさを最も痛烈に認識している男だ。死の直前「永遠の平和、永遠の平和……」と繰り返し語った。 長松は貫太郎に対する畏敬の念を抱きながら、「鈴木貫太郎閣下は『戦争が終わり平和になった。君たちは若い。これからの日本に平和が継続するために頑張ってほしい』とおっしゃいました」と語った。 その上で語気を強めた。 「鈴木貫太郎閣下も、四元義隆先生も、そして末端の私も、皆戦争を終わらせるのに命を懸けました。戦争は始めるのは簡単ですが、終わらせるのは大変なのです」 長松の熱い言葉を聞きながら、私は思いを新たにした。戦後70年の日本の平和は、先人たちの魂の上に築かれているのだ。それを忘れてはいけない。〈文中敬称略〉でまち・ゆずる ジャーナリスト。1964年、冨山県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科を卒業後、時事通信社入社。ニューヨーク特派員を経てテレビ朝日入社。番組デスクの傍らで、東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。著書に『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(幻冬社)などがある。経済記者として数多くの企業トップのインタビューも手がける。関連記事■ 戦後70年、「日本軍が侵略した」と騙るすべての人へ■ 従属国家論~日米戦後史の欺瞞(2)■ 軍を捨てて国を残した「阿南惟幾」という男/役所広司

  • Thumbnail

    記事

    今も忘れられない、硫黄島の戦友たちの笑顔

    ととなりました。 硫黄島がすでに厳しい状況に置かれていることは、新聞やラジオで広く知られていました。戦争の最前線に赴くわけですから、決死の覚悟で行かねばなりません。 私は元来、気の小さい臆病者です。しかしこの時は喜び勇んで飛び立つ思いで、むしろ出立の日を待ち焦がれておりました。私に限らず、多くの将兵が抱いていた気持ちだったと思います。写真:栗林快枝氏蔵、撮影:佐々木悦久 出立前日、僅かな時間を利用して東京の姉夫婦の家を「別れの挨拶」のために訪れました。姉は私が硫黄島に行くと聞き、終始、泣いていました。戦場に赴く者が勇み、見送る者が涙を流す。私としては、そんな姉の姿を前に「よし、頑張らなくちゃいけない」と決意を新たにしたものです。 また、出立前には故郷・鹿児島の母から千人針の布が送られました。こうした家族の想いを胸にしまい、私たちはあの激戦の島へと向かったのです。 11月30日、東京の立川航空廠に隣接する飛行場で重爆撃機に乗り込みました。飛び立ってしばらくすると、後部座席の航法士が私の肩を叩いて「あれが硫黄島だ」と教えてくれました。 ──こんなちっぽけな島が、日本の命運を握っているのか……。 私は、開いた口が塞がりませんでした。島で出会った意外な光景 島に降り立ち、まず驚いたのが艦砲射撃や空襲で島中が穴だらけだったことです。飛行場には破壊された航空機の残骸が爆弾の穴に無造作に投げ込まれており、稼働可能な航空機は戦闘機4機のみ。飛行場のテントは、所々が破れています。 ──自分はいずれ、この島で命を落とす。私はこの時、改めて覚悟を固めました。同時に頭に浮かんだのが、「玉砕」という言葉。あの悲壮感は、言葉にできません。 ところが、私が赴任した元山飛行場で、意外な光景に出会いました。海軍の兵士や下士官が到着を待ち受けていたのですが、彼らは実に明るく、誰もが笑顔を浮かべていたのです。 何とも潑剌とした、顔、顔、顔……。その表情は悲壮感など微塵もなく、皆が落ち着いていました。祖国のため、内地に置いてきた家族のために、為すべきことを為す。彼らはその一心で、己の任務に向き合っていたのでしょう。そして、その笑顔に触れて、私は生き返った気持になったものです。 「もうすぐ、定期便が来ますよ」 硫黄島に到着したその日、1人の水兵にそう言われました。我々は陸軍ですが、海軍側と協同作戦をとることになったために、打ち合わせていた時でした。 聞けば、1日に4回ほど空襲に来る米軍機を「定期便」と呼んでいるとのことで、しばらくするとB‐29編隊の接近をレーダーがキャッチしました。私たちは、飛行場の滑走路すぐ横のトンネル状の壕に避難しました。 「爆弾投下!」の声があがると、夕立のような風を切るような音がして、耳を塞いでいても鼓膜が破れんばかりの爆発音が轟きました。硫黄島ではこれが日常でしたが、それでも「この島は大丈夫だ」と誰もが活き活きとしていました。栗林中将との思い出栗林中将との思い出 しかし、戦局は好転しません。敵機編隊が近づくと、一式戦闘機隼と海軍の零戦が迎撃に上がりましたが、悲しいかな、雀と鷹の戦い。敵機に撃ち落とされる機、地上で破壊される機、そして戦死するパイロット……。惨状を前に、私はただただ悔しさをかみ殺すしかありませんでした。 12月某日、市丸利之助海軍少将が御訓示をなされる機会がありました。「戦局はまさに重大である。皆心を一つにして各々の持ち場で奮闘せよ。しっかり頼むぞ」という意味の切々たる思いが込められていました。 しかし、年末には使用可能な戦闘機は一機も残っていませんでした。ここに至り、私たちは年明け早々、本土から迎えに来る重爆撃機で硫黄島を去ることになったのです。母からの千人針を手にする西氏 ちなみに、私は空襲の際、お腹に巻いていた母からの千人針の布のお蔭で、重傷にならずに済んだことがありました。母は残念ながら本土空襲で命を落としましたが、母の心配りが遠く離れた私を守ってくれたのです。 1月8日早朝、私が栗林忠道陸軍中将とお会いしたのは、重爆が迎えにくるその日でした。中将は、「ご苦労様でした。皆さんの御健闘は、各方面から感謝されております」と丁寧に礼を述べられました。司令官自ら、私のような末端の兵士にこのように優しい言葉をかけて下さることに、ただただ恐縮するとともに、何の役にも立てなかった恥ずかしさがこみ上げてきました。 また、中将は1人の兵が首にかけていた遺骨に目をやると、「この兵は、どうして亡くなったのですか」と聞かれ、まるで我が子を労わるようにしばし、遺骨を抱かれました。こんな上官のもとならば、死んでも悔いはない──その時に抱いた、率直な思いです。 やがて、迎えのトラックが来たので、これに乗り込みました。周りには、大勢の陸兵が見送りに来てくれています。僅かな期間でしたが、これほどに親密な「戦友」との出会いは他に経験したことがありません。 1人として、「自分も本土に帰りたい」と口にすることはおろか、表情にも出しませんでした。あの彼らの神々しいまでに美しい笑顔は、何時(いつ)までも忘れることができません。 私が島を離れた1カ月後、硫黄島に米軍が上陸し、厳しく、悲しい結末が将兵に待ち受けていました。私は今も、あの戦いで散華した戦友に、自分が生き延びたことへのお詫びと、感謝の思いで過ごしています。こうして、当時の体験を後世に伝えることで、少しでも御霊の慰めになればと思わずにはいられません。関連記事■ 愛する家族のため、大敵に挑んだ「硫黄島のサムライたち」■ 「歴史街道」8月号●硫黄島のサムライたち■ 「この名前、かっこいい!」と思う歴史人物ランキング