桐生の9秒台はもちろん快挙だ。歴史を開く一歩であるのは間違いない。だが、「少し遅すぎた」という気持ちを持つ関係者、ファンも少なくないだろう。

 電動計時で世界初の9秒台が記録されたのは、1968年10月、ジム・ハインズ(米国)の9秒95。それから49年もたっている。ただ、ハインズの記録が高地メキシコでマークされたものだったため、1983年5月、カール・ルイスが出した9秒97が「平地で初めての9秒台」とも形容されている。それからでさえ、34年も過ぎている。

 ウサイン・ボルトが9秒58の現世界記録をマークしたのは2009年8月のベルリン世界陸上。桐生の記録と0秒4もの差がある。伊東浩司が10秒0をマークしたのは、1998年12月。この記録更新に19年近くかかった。それだけ難しかったとも言えるだろうし、桐生の快記録を誰も驚きはしなかった。それは「機が熟していた」と誰もが感じていたからだろう。それだけに、ここからの飛躍に期待がかかる。

 世界の現状に目を移すと、9秒98は決して手放しで喜べる記録ではない。国際陸上連盟のホームページに、世界歴代ランキングが掲載されている。桐生は99位にランクされている。すでに引退した選手も多いが、世界はまだ決して近くはない。

 今季のベスト10を見ても、トップがクリスチャン・コールマン(米国)の9秒82。2位がヨハン・ブレークの9秒90、3位ジュリアン・フォルテの9秒91とジャマイカ勢が続く。11位に9秒97で5人が並んでいるから、桐生より速い選手がまだ15人いるわけだ。内訳は、アメリカ5人、ジャマイカ3人、南アフリカ3人、フランス、トルコ、英国、コートジボワール各1人。そのうちのボルトは引退した。もちろん、このランクなら、決勝進出は射程内といっていい。決して夢ではないだろう。だが、他の選手が実力どおりの走りを展開したら、まだ金メダルを確実に狙えるまでには至っていない。

 京都・洛南(らくなん)高2年のとき、ユース世界記録の10秒21をマークし、桐生は一躍脚光を浴びた。9秒台を実現するのに、それから5年の月日が必要だった。この長い5年の間に桐生は何を感じ、何をつかみ取ってきたのか。それが大きな糧となって、五輪ファイナリスト、さらにはメダル獲得につながればいい。
陸上の日本選手権男子100メートル決勝で4位に終わった桐生祥秀(中央)。右は10秒05をマークし、初優勝したサニブラウン・ハキーム。左は2位の多田修平=2017年6月24日、ヤンマースタジアム長居(撮影・甘利慈)
陸上の日本選手権男子100メートル決勝で4位に終わった桐生祥秀(中央)。右は10秒05をマークし、初優勝したサニブラウン・ハキーム。左は2位の多田修平=2017年6月24日、ヤンマースタジアム長居(撮影・甘利慈)
 今回の記録達成は、実はあまり期待されていないレースだった。コンディションはよくなかった。そのため、普段はあまりやらない長い距離を走る練習を数日間やっていた。そのためか、後半の失速が遅かった。いつもは55メートル付近でトップスピードを記録するのが、今回は65メートル付近が最速だったという分析がある。これが世界の上位に食い込むための、意外に大きな手がかりになるのではないかとの見方もある。

 ずっと望み続けた9秒台だが、このレースに限っては「無欲」な記録達成が、桐生に思いがけないひらめきと新たな感覚を与えた可能性がある。