横綱の資格とはなんだろう? 横綱の偉大さとはなんだろう?

 「二場所連続優勝かそれに準ずる成績」という制度上の基準には、私はそれほどこだわらない。だが、強者の中の強者、言葉を変えれば「相撲道を極めた者」という意味での横綱の地位は侵してはならない聖域ではないかと、幼いころからの相撲ファンとして感じる。相撲を極めた者は、大勝負には負けないだろう。厳しい場面に立って、常人が驚嘆するほど普段以上の神々しさを見せ、圧倒的な強さを見せる。それこそが横綱であり、知る限りほとんどすべての歴代横綱が昇進時にはそうした輝きを見せて来た。

出来上がった綱を締めてもらう新横綱稀勢の里
=1月26日、東京都江戸川区の田子ノ浦部屋
出来上がった綱を締めてもらう新横綱稀勢の里 =1月26日、東京都江戸川区の田子ノ浦部屋
 果たして、稀勢の里はそれだけの驚嘆と感銘を与える相撲を見せただろうか。強さは間違いない。だが、理事長や相撲協会の特段の配慮を受けた過保護とも言える状況下で、危ない橋を辛うじて渡りきっての昇進は、異例といっていいだろう。そのことが、今後の稀勢の里に、そして相撲界にどのような未来をもたらすのだろう。

 相撲は本来、心技体を極め磨く修行と一体のはずだ。相撲に精進し、相撲が強くなれば自ずと心も強くなる。なのに稀勢の里はプレッシャーに弱い。それは相撲が本質を失ったからだと指摘されても仕方がない。もちろん相撲の変質は稀勢の里のせいではない。むしろ稀勢の里はその悪影響を被っている一人かもしれない。

 筋力トレーニングを積極的に取り入れてから、相撲界の「本質の喪失」に拍車がかかった。かつて相撲界は筋トレを必要としなかった。股割り、四股鉄砲、摺り足、ぶつかり稽古といった伝統的な稽古の中に、相撲の全ては凝縮されている。筋力に頼ると「頭」が働く。頭で考えたら不安が生じる。それがプレッシャーに弱い人間を作る。そのカラクリは、武術を稽古した者はよく知っている。スポーツ界は欧米の影響や価値観に影響されているから、そのような身体論を受け入れない傾向が強い。

 四股鉄砲に代表される理屈抜きの体系を継承する相撲は独自の伝統文化を有する誇り高き道だ。ところが、相撲がスポーツの影響下に成り下がり、誇りと真価を失っている。勝負に弱い横綱・稀勢の里はその象徴的な存在とも言えるだろう。相撲が強くなっても心が強くならない。相撲だけでなく、日本のスポーツが直面する深刻な課題だ。

 果たして、そこを認識し、相撲本来の稽古の復活を徹底しようと燃えている親方衆がどれほどいるだろう。強いモンゴル勢を擁すれば部屋が活気付く、そこに依存してきた相撲界の現実。四股鉄砲の本質に誇りを持てず、筋トレで目先の強さを追ってきた世代が親方になった相撲界。

 いまはほとんどの部屋にウエイトトレーニングの器具やマシンが用意されているという。それがないと「遅れている」と思われる。スポーツ的な安易な手法を毅然とはねのける信念を持つ親方が少ない。

 近道を用意された横綱・稀勢の里が、横綱の地位を得て、変わるだろうか。ファンとしては変わって欲しいが、そう甘いものではないだろう。

 横綱は負けることが許されない地位。これからの、絶対負けられない一番一番、そして、今後も展開されるであろう優勝のかかる終盤の戦いでどのような相撲っぷりを見せてくれるのか。揺るぎない心の強さを見せてくれるのか。

 初場所前には、徹底して基本稽古に取り組んだという。そこには未来がある。改めて相撲の本質と向き合い、相撲本来の真価を体感し体現することが、19年ぶりに横綱になった日本出身力士・稀勢の里に託された責務と期待ではないだろうか。