かつて武士たちの時代には、「戦わずして勝つ」の次元があったと言われる。互いに真剣を抜いて対峙し戦えば、どちらかが死ぬ。そのため、対峙した瞬間に負けを悟ったら、無駄死にせず、潔く負けを認めてひざまづいた。実際に剣を交えるまでもなく、互いに優劣を感じ合う次元を両者が備えていた。
琴勇輝と対戦する白鵬=7月 15日、愛知県体育館
琴勇輝と対戦する白鵬=7月 15日、愛知県体育館
 白鵬が追い求めた『後の先』もそれが前提にある。相手が立った後で受けても負けない、という見かけの後先ではなく、立つ前に、見かけは動いてないけれどすでに相手を捉えているため、相手は無力化されている。その時点で勝負はついているので、相手の攻撃を受けて立ち、後から動いても楽々と相手をさばけるという意味だと思う。双葉山はそれを体現していた。白鵬もそれに近い感覚はあったに違いない。

 ところが、いま相撲協会の親方衆のどれほどが、その次元を理解し、共有しているか。そして、白鵬の師匠となって、双葉山への境地に導く存在があったかどうか。そうした真の師となる存在の不在が、大相撲の悲劇ではないだろうか。

 師がいない。そして、勝った・負けたという結果ばかりで評価がされる風潮に支配されれば、悪い結果を恐れる不安が募る。結果を意識し、頭で考えるようになると、身体が頭脳に支配され、頭脳は不安を増幅して体を硬く縛り上げる。それが、大一番での稀勢の里だ。普段の稀勢の里は、身体に任せ、感性と身体感覚で動いている。それが頭脳の支配に変わったとたん、別人になる。白鵬の強さと稀勢の里の弱みが表裏一体だというのは、いまの相撲界が勝負の結果ばかりに支配されていること、戦わずして勝つの次元を求めて来なかった師匠たちが大勢を占める指導力の欠如にあるという懸念だ。

 白鵬には、もう一度「勝てばいい」ではない次元を求めて欲しいし、稀勢の里には勝負を超えて戦う覚悟と大らかさを期待したい。