印象として、これまでのスポーツ議員の大半は客寄せパンダ的な存在で、いわば集票マシーンとしての期待が大きかった。議員になってそれなりの存在感を示している元選手もいるにはいるが、政党の思惑に沿って使われるだけで、「もっとスポーツを愛する者の情熱や願いに沿った動きをしてくれないか」と、じりじりする場合が多い。

 故郷・熊本の被災が政界進出のひとつのきっかけになったという朝日健太郎氏は、6人制からビーチバレーに転向したことで様々な経験と目覚めを体験しているはずだ。

 監督の強烈なリーダーシップの下、やらされるイメージが強い従来型のチームスポーツから、指導者がいない、自分たちで主体的に練習し強化を図るビーチバレーは、マインドがまったく違う。ここにはスポーツがいじめの温床になりかねない現状から脱却するためのヒントがある。夏の五輪の中にあっては数少ないエックスゲーム的自由さを持ったビーチバレーに飛び込んで、それまでのスポーツのイメージと正反対のスピリットを朝日健太郎は実感しただろう。それはスポーツのひとつの未来像とつながっている。しかも、ビーチという自然の舞台。海からの風と調和し、裸足で砂の上を動き回る。人工的に整備され、守られた室内競技場でプレーする6人制バレーボールとはその面でも対照的だ。自然への目覚め、自然との共生なども体感しただろう。その意味で、従来の多くのスポーツ議員の枠から脱却し、本当にスポーツを愛する者の代表として活躍してくれたら政界進出の意義はある。
バレーW杯日本対イタリア。日本代表の朝日健太郎の スパイク=1999年11月30日
バレーW杯日本対イタリア。日本代表の朝日健太郎の スパイク=1999年11月30日 

 かつてマニフェストが話題になり、各政党が選挙ごとにそれを発表した当初、私はいつも苦い思いを感じた。なぜなら、スポーツ選手が選挙に担ぎ出され、政治家はスポーツを様々な形で利用するくせに、マニフェストにはほとんど一行もスポーツのことが記載されていなかった。政治家のスポーツ認識などその程度のものだとよくわかった。ここ数年はさすがに2020東京五輪招致に絡んでマニフェストにスポーツが登場するようになった。だが、彼らのスポーツ認識が変わったわけではない。
 
 6月初めに閣議決定された政府の成長戦略の中にもスポーツは取り上げられ、要約すると次のように規定されている。

 「スポーツの熱狂は多くの国民を魅了するものだから、当然収益性も高い。これを利用して産業を活性化させない手はない」

 射幸心を煽ってギャンブルの売り上げを伸ばせ、と書いているようなものだ。

 いま、商業主義、勝利至上主義に偏りすぎたスポーツの弊害が目に見える形で連日のように露呈される中、政治家やお役人はその弊害を脇に置き、ビジネスチャンスだけをさらに伸ばそうと一致団結している。奇妙な現象ではないだろうか。国民の多くはメディアに煽られるまま、不祥事には拳を振り上げ、熱狂は歓迎して受け入れる。それではスポーツに未来はない。政界に乗り込むスポーツ選手にはこの点を胸に刻んでもらいた。そして私たちスポーツを愛する者たちも、政治に利用されるスポーツから脱却し、政治を超えるスポーツの力を社会の再生と活性化に生かす道を提言し実践する道に踏み出す意識に目覚める時期に来ている。