新聞社の記者たちに私は聞きたいのだが、記者だって自分の書いた記事に難癖をつけられることがあるはずだ。そんなとき、「いや全文を最後まで読んでください」「最後に私の言わんとしていることが書いてある」などと弁明しないだろうか。ところが、その彼らが森氏に対しては一切弁明を許さない。全体として、女性を蔑視したり差別する意図や悪意は全く感じられない。むしろ、発言を撤回して謝罪した人をここまで追い込むことのほうが異常だ。

 はっきり言うが、特にどうということもない部分を取り上げて言葉狩りをすることがマスコミの仕事なのか。同様に感じている女性は少なくないが、マスコミは全く取り上げない。勝手に差別認定した後は、両論併記の原則さえ捨てるようだ。

 そもそも私が今回の事件にこだわるのには理由がある。私は過去に2度、差別を理由にメディアリンチが起きた事件に遭遇している。一つは、2004年、福岡市で起きた、いわゆる「いじめ教師事件」である。同市内の小学校で教鞭をとる男性教諭が、9歳の男児にいじめや体罰を繰り返したとして、「週刊文春」に、「史上最悪の殺人教師」と書き立てられた。

 当時、新潮社の月刊誌「新潮45」に寄稿していた私は、編集者から文春の記事の後追いを依頼され、福岡に向かった。すでに地元マスコミの報道が過熱していたところに、「週刊文春」の記事は火に油を注ぐ結果となり、教諭へのバッシングはピークに達していた。ところが、当の教諭をはじめ関係者を取材して判明したのは、教諭が男児に行ったとされるいじめや体罰は事実無根であり、全くの冤(えん)罪であるということだった。

 なぜ、ここまでマスコミが暴走したのかと言えば、この男児は米国人との混血で、それを知った教諭が人種差別からいじめや体罰を行ったとされたからである。「人種差別」と「いじめ」に過剰反応した記者たちは、男児の母親の虚言を全く疑わなかった。結局、米国人との混血というのもウソだったのである。最終的に冤罪が晴れるまでの間、私は教諭の苦悩を間近に見てきたが、寄ってたかって一人の人間をつるし上げる怖さを身にしみて感じた。

 もう一つは、このいじめ教師事件のルポを載せた「新潮45」を巡る「LGBT(性的少数者)差別」事件である。2018年、同誌に自民党衆院議員の杉田水脈氏が、「『LGBT』支援の度が過ぎる」と題する論文を寄稿した。その中に、「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない。つまり『生産性』がないのです」という文章があり、これが猛バッシングを浴びた。

 杉田氏は、欧米の過激なLGBT差別撤廃運動がなんの異論もなくわが国に上陸したことに懸念を持っていた。そもそも日本では同性愛者が迫害された歴史はなく、状況が異なっていたからだ。そこで、いささか辛口のLGBT批評を載せたのだが、「生産性」という言葉にマスコミや野党政治家が激しく反応。LGBT当事者も杉田氏と同誌の責任を追及し、世間は批判一色になった。

 ところが実際は、当事者の中にも異論や反論が多数あり、「新潮45」を擁護する声も少なくなかったのである(私は後に詳細に取材している)。ところが、そうした声を新聞やテレビは黙殺した。今回と全く同じパターンである。

 結局、同誌は事実上廃刊に等しい「休刊」となったが、私は、だれもが抗えない「差別」の2文字に、人々や組織がいかに萎縮してしまうかを思い知った。と同時に、気に入らない人や組織を追い落とすツールとしてこの2文字が非常に有効であることも理解した。

 今回の森氏への異常ともいえる攻撃にも、私は同様の臭いを感じている。私は、日本にも女性差別がいまだ存在することを否定しない。男尊女卑の気風も色濃く残っているとは思う。しかし、欧米由来の行き過ぎたポリティカルコレクトネス(政治的、社会的に公正で中立とされる言葉や表現を使用すること)や、過激で排他的なフェミニズムの手法には疑問を抱く。普通の常識で考えて特に問題とも思えないことを、ことさら「差別だ、セクハラだ」と攻撃して相手を強引にねじ伏せる風潮に危ういものを感じる。
東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗氏の女性蔑視発言を巡り、JOCが入る建物前で抗議活動を行う人たち=2021年2月9日、東京都新宿区
東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗氏の女性蔑視発言を巡り、JOCが入る建物前で抗議活動を行う人たち=2021年2月9日、東京都新宿区
 米国人の芸人、厚切りジェイソン氏は、TBSのワイドショーに出演し、こう証言している。「(森さん発言に)海外はけっこう怒っている。特にアメリカは敏感。失言一つで仕事ができなくなるシビアな状況だから」。恐ろしいではないか。