野球やバスケットボールと違い、個人競技のテニスでは「プレーしない」は「棄権」が常識であり、「延期」はない。では大坂はなぜ「話し合ってWTAが賛同し、明日は中止になった」と書かなかったのか。USTAとWTAも、彼女と話し合ったことには一言も触れず、さらにはウィスコンシン州の事件など具体的な名詞は避けている。この単純な手続きを省いた背後に、多くのテニス関係者が疑問を抱いた。

 思い出すのは、68年のメキシコシティー五輪の出来事だ。当時も黒人による公民権運動が激しく繰り広げられ、指導的立場にあったマーティン・ルーサー・キング牧師がオリンピック開催の半年前に暗殺されていた。

 すると、陸上200メートルで1位と2位に入った米国の黒人選手が表彰台の国旗掲揚で黒い手袋をはめ、拳を突き上げる抗議行動に出た。彼らのメッセージは、この大会で本格的に始まった衛星中継に乗って瞬時に世界中に広まった。「ブラックパワー・サリュート」と呼ばれるこの行動は、「黒人差別に抗議する」という点で先日の大坂のSNS発言と同じ趣旨であろう。しかし、2人は即刻選手村を追放され、米国選手団からも除名処分を受けている。

 そこには、冷戦時代の真っただ中でスポーツを政治や思想から切り離そうという共通認識が存在していた。しかし、彼女のとった行動は、動機はさておきスポーツの場を利用したという点では明らかな政治行動であり、メキシコシティー五輪の事件と変わらない。だが、半世紀前なら出場停止処分もあり得た行為に対し、USTAのビリー・ジーンキング名誉会長が「誇りに思う」とツイートするなど、反応は当時と真逆になった。

 この大坂の「棄権事件」が不可解であった原因として、米国内の空気が読めないことにある。それは、SNS時代の「壁」に起因する。USTAが彼女のメッセージに対し「スポーツの政治利用」などという理屈を掲げれば、全米オープンも開催できないほどの大騒動になる。

 リモート取材では現場の緊張感は共有できない。だからといって、主催者が「なおみを支持する」と表現することもできない。時は大統領選挙戦の最中のニューヨークであり、選手会組織であるATPやWTAには民主党支持者も共和党支持者も、白人警官を擁護する選手もいる。下手をすれば、彼女が周囲から「その弱みを承知の上で抗議行動した」と受け取られる可能性さえある。

 もちろん、大坂自身も知らない背景があるとは思う。彼女が電話を受けた主催者側は、8月27日を「差別への抗議」として大会を一時的に閉鎖し、テニス界の意思表示としてこの騒動を治めるつもりだったのではないだろうか。
白人警官に暴行され死亡したジョージ・フロイドさんの名前が入ったマスクを着け、入場する大坂なおみ=8日、ニューヨーク(AP=共同)
白人警官に暴行され死亡したジョージ・フロイドさんの名前が入ったマスクを着け、入場する大坂なおみ=9月8日、ニューヨーク(AP=共同)
 人種問題はもちろん重要なテーマだが、全米オープンの主催者らは目の前に「コロナ禍でのテニス再開」というとんでもない難問を抱えていた、オリンピック委員会も注目する、コロナ禍真っただ中での試みなのだ。しかし、それでは人種問題を掲げた大坂の立場が消えてしまう。だからこそ彼女は先にSNSで自分のリーダーシップを発信し、大会組織がその後に延期を表明したのかもしれない。

 この先走ったSNS発信は、コロナ後のテニス界が新たなヒロイン、大坂から始まると強調したかのようであり、主催者はこの行動が前例になることを恐れたようにも思える。

 彼女はピュア(純粋)、イノセント(無邪気)と言われ、実際にウソの言えない正直な若者だ。だが、彼女の立つプロツアーという舞台、黒人女性として背負った背景はそれほど単純なものでもなく、生き馬の目を抜く世界である。