平壌市民は「指導者はお元気だ。安心だ」と公言しながらも、真実を探ろうとする。誰かと話していても、こっそりと「指導されているから安心だ」と語って相手の反応を見る。こうして、平壌では「指導者がおかしい」という噂が広がっていった。

 首都での噂を打ち消すために、指導者出席の会議が報じられ、併せて多数の写真も掲載された。そうしなければならないほどに、平壌は不安定だったのだ。このためか、過去3カ月で2回ほど「指導なされた」という表現で報じられた会議があった。

 最近では、8月20日の朝鮮中央放送が、「党中央委総会が開かれ、金正恩委員長が指導なされた」と報じた。ところが、この報道の中で「最高領導者同志が中央委総会の決定書草案を読み上げた」と報じた。

 指導者は「指導なされる」のであって、他人が作った決定書の「草案を読み上げる」ことはしない。演説や指示ならともかく、「草案の読み上げ」ではただの使い走りでしかない。

 韓国紙、朝鮮日報は8月18日、北朝鮮の朝鮮社会科学院が機関紙で「独裁批判の論文を掲載した」と報じた。記事には、隔月刊誌「社会科学」2020年1月号に、中国の清の時代の書物を引用し「国家の利益は民衆の利益であり、君主個人の独占物ではない」と述べていた。

 その論文は「黄宗羲の君主批判とその意義」という題で、黄宗羲の「明夷待訪録」という書物が引用されていた。黄宗羲は「中国のルソー」とも呼ばれる清朝の儒学者で、明(みん)や清のような皇帝独裁体制を批判し、政治改革を訴えた人物だ。論文では「黄宗羲は、国家の利益は民衆全ての利益であるべきで、国家を君主個人の利益と同一視する封建的絶対君主制の弊害を明らかにした」と指摘した。

 北で、個人が勝手にこのような趣旨の論文を書けない。もちろん社会科学院も論文を掲載できるわけもなく、明らかに指導部が書かせたのである。

 もし、金委員長が書かせたとすれば大変なことである。あるいは、党や政府、軍の勢力が書かせたのか。

 朝鮮日報は、国民の不安と不満を和らげるために、金委員長を独裁者ではなく「民衆を愛する指導者」と強調するために、書かせたと分析しているが、納得できる説明ではない。やはり北朝鮮指導部で何かが起きている可能性が高い。
故金日成主席(左)と故金正日総書記の銅像が立つ平壌・万寿台の丘に訪れた市民ら=2020年7月8日(共同)
故金日成主席(左)と故金正日総書記の銅像が立つ平壌・万寿台の丘に訪れた市民ら=2020年7月8日(共同)
 考えられる可能性は、「金委員長は生存しているが指導できる状態になく、影武者が登場している」「金委員長が中国のような集団指導体制にしようと考えを変えた」かのいずれかだ。

 4月上旬に動静報道が途絶えて以来、金委員長の肉声はいまだに公表されない。関係各国の情報機関に、声紋分析で本人かどうか鑑定されるのを恐れているのだ。肉声が明らかにならない限り、健康不安への疑問はこれからもくすぶり続けることだろう。