とすれば、与正氏に連絡事務所の爆破や非武装地帯への軍部隊の移動を命じる権限があるのか、という疑問が生じる。北朝鮮ではクーデターを恐れるため、軍部隊移動の指揮命令系統が厳格に守られるからだ。

 朴正天(パク・チョンチョン)軍総参謀長の命令は当然としても、党中央軍事委員会からの指示書はもちろん、前後左右の部隊司令官への事前通告なしには部隊移動できない。それほど厳しい部隊規制であるため、与正氏の一声では動かせない。そのためか、総参謀部の報道官は「要請を受けて、党中央軍事委員会への手続きをとる」とだけ述べている。

 これは実に奇妙な声明である。与正氏に対して「あなたの要請では、軍は動かせません」と言っていることになるからだ。

  その上で、労働新聞が社説で党中央委員会について触れた際に、「党中央」の言葉を使用するという異常な事態も起きた。先述の3回報じた「党中央」の表現とは明らかに違う内容で、何らかの巻き返しがあった可能性がある。

 では、こうした平壌の動きから何が読み取れるのか。一言でいえば、北朝鮮は後継者をめぐる思惑で緊張状態にある。少しでも何らかの発言や行動を起こせば、後で粛清されかねないため、首脳陣は何の発言も動きも見せられないのである。

 表面に現れた事実を読み解くと、「党中央」の表現が使われたことは確かであり、後継者決定の動きがあるのは間違いないだろう。その上、いまだに勢力争いが起きている可能性がある。与正氏の言動は、彼女を推し立てて後継者にしようとする勢力の存在を示唆するからだ。

北朝鮮の金正恩体制を批判するビラなどを大型風船につけて飛ばす韓国の脱北者団体「自由北韓運動連合」=2020年5月、韓国・金浦(団体提供・共同)
北朝鮮の金正恩体制を
批判するビラなどを
大型風船につけて飛ばす
韓国の脱北者団体
「自由北韓運動連合」
=2020年5月、
(団体提供・共同)
 だが、後継者には人民軍と労働党の長老の同意が必要となる。後継の行方を左右する「家族会」と党には、金主席の娘で金総書記の妹、金敬姫(キム・ギョンヒ)氏が決定権を持つ。

 軍は最長老で元国防副委員長の呉克烈(オ・グンニョル)将軍が掌握している。党と軍で駆け引きが展開されているのだろうか。

 与正氏は韓国への激しい言動をした後に姿を消し、沈黙したままだ。平壌内部で、与正氏への批判が起きている可能性がある。

 言論統制の国家ではデマや噂が流され、捏造(ねつぞう)も多く生まれる。北朝鮮もまた噂の帝国であり、かなりのデマと勢力争い、駆け引きが展開されていることを忘れてはならない。